このIT社会の中で、一人でパソコンに向ってつぶやいている人が増えているらしい。その「つぶやき」は、発声を伴わず、キーボードをパチパチと打つ形をとる特殊なつぶやき方だ。最近はTwitterなる「つぶやき」場所があるらしい。私はそのシステムをよく理解していないが、それをやっている友人が「意味のない感想や独りよがりの独断ばかりで、読む価値のないものが多すぎる。せいぜい災害時の連絡に役立つくらい」と評価しているし、最近ではテレビのニュース番組の画面の下にもTwittterから出てきたという、くだらない個人的感想や、匿名をいいことに勝手な言いたい放題のコメントが出てきて、全く興味が持てない。
もし、引きこもっている人が、Twitterみたいなことばかりしていたら、まったく不健康で、立ち直りを遅らせるばかりになると思う。自分のその都度の思いつきや気分を、実は誰も真剣に聞いてくれてもいないのに聞いてもらったような錯覚をおこし、自分の殻に引きこもっているのかそうではないのかハッキリしない中途半端な形になってしまい、「一人でじっくり考える」時間の豊かさや貴重さに気づけないままに、いたずらに時間だけが過ぎ去ってしまいそうだ。
同じ引きこもり状態でも、引きこもっている間にじっくりとものを考えて成長する、豊かな引きこもりがある。キリストやブッダといった歴史上の有名人など、枚挙にいとまがない。もちろん、そのような特殊な人でなくとも、青年期に引きこもり体験を経て成熟を遂げた人はたくさんいる。私の知人でも、10代で長期間引きこもっていて苦しかったが回復し、今や一般の人以上にコミュニケーション上手で、ある組織で活躍している人がいる。患者さんの中にもそういう人がいる。私自身は引きこもり体験はないが(「貧乏暇無し」で、高校時代からバイトに忙しく、引きこもる余裕などなかった)、大学生時代、誰とも一言も話さない日々を何日か送ってみた。その時に何を考えていたのかも今は全く覚えてもいないが、何か充実した、貴重な体験であったという実感だけは残っている。
人が何かに悩んだり迷ったりしている時、他人に何の助言をもらわなくとも、ただ聞いてもらう、それだけでも解決になりうる。また、一人で壁に向かって話すだけでも悩みが解決することがある(臨床心理士の河合隼雄先生もそう語っていた)。そのような「一人カウンセリング」行為で悩みの解決のみならず、人格の成熟をも遂げた例は、やはりたくさんあり、例えば『告白』の著者で、古代の神学者でも説教者でもある聖アウグスティヌスは、若い頃に親友を失ってそのショックから抑うつ状態・引きこもりになったようだが、一人で沈思黙考し内省を重ね(神への語りかけを続けたと言った方が適切かもしれないが)、病前よりもずっと豊かで英知ある心を得ている。
アウグスティヌスの前半生が書かれた『告白』を読むと、少年期に仲間と近所の梨の木から実を盗んだいたずらを過剰なまでに悔いて神に懺悔し、女性関係の細かな出来事でも懺悔し、その懺悔の繰り返しは読んでいてうんざりするところもあるが、そうした彼の粘着的な性格も含め、ある種のうつ病の患者さんの心理を、(うつの経験者ならでは、とも言えるが)よく描いている。例えば、彼の親友が病死した時、「この悲しみのために、わたしの心は、まったく暗黒となり、何処を眺めても、目に見えるものは、ただ死のみであった。・・・わたしの目は、いたるところにかれを探し求めたが、かれは見えなかった。わたしはあらゆるものを憎んだ。・・・ただ涙のみがわたしにとって甘美なものとなり、わたしの友にかわって、わたしの心の喜びとなった。」「なぜ涙は不幸なものにとって甘美であるのか。・・・わたしは不幸で、わたしの喜びを失っていた。それとも泣くことは本来つらいことであるが、かつて楽しんだものに嫌悪を感じるゆえに、わたしたちがそういうものを忌み嫌うときには、われわれをよろこばすであろうか。」「わたしの友でないものは何でも、嘆きと涙をのぞいて、わたしに不快と嫌悪の情をおこさせた。ただ嘆きと涙のうちにのみ、わずかながらの安息があった。しかしわたしの魂は、この嘆きと涙から引き離されるとき、不幸な重荷となって私を圧迫した。」(第四巻第四章・第五章・第七章、服部英次郎訳、岩波文庫)などの記述があり、大事なものを喪失して心が抑うつ状態にある時の心理が細かく描写されている。まず、親友を失うという、言葉にできないくらいの喪失(彼の友の死が彼の精神の死を生じさせた)の体験の苦しさがあり、その苦しさに圧倒されて抑うつ状態となり、抑うつ状態の最中にあっては「本来つらいこと」である「嘆きと涙」が、「甘美」な感情や「わずかながらの安息」を与えてくれる、という複雑な心理機制がわかる。そして、当然ながら、その「甘美」や「安息」の背後には、抑うつの引き金となった喪失体験があり、その体験を思い出すことを必死に避けているがためにかえって不安はぬぐいされない、落ち着かない状態であること、このあたりの心理がよく描かれている。
その後のアウグスティヌスは、友人たちとの交流を通して元気を回復し、マニ教からキリスト教に改宗し、母との関係も良くなったことから、心の安寧を得たようだ。クリスチャンでない人間にとっても、一人の人間の傷つきと成長の物語として読むだけで、読みごたえがある。精神医学や精神分析の教科書で「喪失体験とは」「メランコリーとは」「うつ病の心理」などといろいろと記述されているが、そうしたものを読んでも実感として理解できない人は『告白』を読んだ方が良いかもしれない。
ネット空間にて、誰にも相手にされないような「独白」の記述をする人(私もその一人か?)と、一人で神に向かって「告白」しているのにそれが後世の異教徒にまで共感や啓発を与えるアウグスティヌスとの違いにつき、どこがどう違うのか、『告白』の文章を読みながら考えていくのも面白いと思う。
ネットで、特に匿名で独りよがりなつぶやきを書く人は、おそらく本当の意味で読者を想定していないのだと思う。彼らは、せいぜい、「いいね!」とポイントを押してくれる人を想定しているだけで、その人がどんな性格でどんな生活をしてどんな価値観を持っている人なのか、そんなことはかまわないのだと思う。自分に賛意を示す人の数の多さに満足するだけで、結局他人をほんとうの意味で人間として見ていない、小学生レベルの心の水準に退行しているか、その段階で成熟が止まってしまっているのだと思う。
それに対し、アウグスティヌスの言葉が、単なる独白にとどまらないのは、彼にとってこれ以上ない良き聞き手である全知全能の神に向かって、誠実に、包み隠さずに、切実な姿勢で話しかけているからであろう。そういう言葉の一つ一つは重みがある。ただ、私たち東洋の異教徒にとっては、あまりにも瑣末なことを「過ち」「罪」として土下座するようにして告白する彼の姿勢は、どこか違和感を感じる(現代のクリスチャンでも違和感を感じる人が結構いるかもしれない。)。その違和感は、一神教的な神を私たちが信じていないから、というだけでは説明しがたい。私が思うに、表現が不適切かもしれないが、アウグスティヌスは、徹底的なまでに「貪欲」なのだからだと思う。自分の人生の一つ一つの行為や思索、細かな過ちや迷い、回心の過程、その全てにわたって神に知ってもらって許しをもらい、究極の安心を得たいという欲望であり、魂の満足を極限まで求めるという点で、最高の貪欲であると思う。貪欲もここまで徹すれば崇高な世界に達するという、一つの実例だと思う。
Twitterなどで半端なことをつぶやいて、幾人かの賛同を得て、その瞬間の小満足を得ていくと、少しずつでもアウグスティヌス的な究極の満足の世界に近づいていくような錯覚を起こすかもしれない。そこが、あのようなつぶやきにハマる人にとっての落とし穴であろう。半端な満足は、いくらたくさん積み上げても繰り返しても、ほんとうの満足に至ることはない。例えば、アルコール依存症の人が、酔っぱらって何でもできるかのように誇大的になっても、真の愛を知る人の満足には決して至らないようなものだ。アルコールが嗜癖となってなかなか止められない人がいるように、ネットでの「つぶやき」も常習化・嗜癖化する。「つぶやき」でもアルコールでもパチンコでも、何かにはまっている嗜癖の人たちは、半端な快感で満足せず、アウグスティヌスくらいにその欲望を徹底させて、魂の満足を徹底的に追い求めれば、嗜癖の落とし穴から脱出できるようになると思う。実際に、アルコール依存症からの回復のために依存症者が集まる自助グループ、AA(アルコホーリクス・アノニマス)では、回復への12のステップとして、次のような段階を標榜している。「1.私たちはアルコールに対し無力であり、思い通りに生きていけなくなっていたことを認めた。2.自分を超えた大きな力が私たちを健康な心に戻してくれると信じるようになった。3.私たちの意志と生き方を、自分なりに理解した神の配慮にゆだねる決心をした。(以降12段階まで続く)」
今や誰もが何らかに嗜癖を持っている時代である。薬物乱用は増え続けているし、パチンコ依存、あやしげな宗教への狂信、恋愛依存、グルメやグッズの収拾嗜癖、アイドルへの心酔、過剰なまでの健康や若さの追求、生活していくのに必要もない巨額な金銭を得ることへの執着、など、様々な形の嗜癖がある。私が研修医の頃、「タバコもお酒もしないで、無駄な時間は一切使わない、何にも依存(嗜癖)しない人はどこかおかしいよ。」と先輩医師に教わったことがある。それはそれで一理あるが、「自分を超えた大きな力」や「自分なりに理解した神」につき全く考えずに生きていくのは、虚しさや不安といつも隣り合わせなので、いつも何かにおびえたり、何らかに嗜癖を持たざるを得ない。私自身、そうした嗜癖や執着が無いわけではないが、嗜癖の世界に浸ったままで空しい人生に終わらないように、よく考えていきたい。空腹の体は「腹八分目」の満足で収めておくのが良いが、魂の満足を求めるに当たっては「八分目」で終えておくのはかえって有害になると考えている。