この本には、やたらカネに関わる話が出てくる。生々しい具体的な金額も頻出する。ギャンブルの話だから当たり前でもあるが、中でも特に依存症者の体験記にはカネの話がたくさん出てくる。「500万円もの大金がATMに吸い込まれるのを呆然と眺めていました」とか、「孫のためと思って、数十万円を度々振り込み・・・1000万円はアッと言う間に消えました」とか、「不審に思うことがあり、問いただすとまた借金50万円」、などなど。
そのようなカネについての生々しい話は聞きたくない、関わりたくない、という精神科医や心理士は意外に多いと思う。精神科医や心理士は、人間の成長、人間関係の修復、愛、罪、後悔、トラウマ、人生の意味、といった「心の問題」を扱いたいと思ってその職を選んだ人が多いと思う。「カエサルのものはカエサルに。神のものは神に。」でもないが、「私たち心理士は心の話、カネの話は実業家に。」と思っている精神科医や心理士も多いと思う。
しかし、精神科医や心理士も、その仕事の報酬としてお金をもらって生きている。私たちは宗教家や聖職者ではない。私たちの仕事の実務上では、カネと時間をどのように使っていくか、という課題は、いつも目の前にある。公立病院においても経営効率が求められている時代である。しかし、そんな現代の病院に勤めていても、浮き世離れした精神科医は、自分の受け持ちの重症の入院患者はそっちのけにし、自分の好みの一人の外来患者に入れ込み、その一人の患者に毎週2、3時間もの時間を使って面接する(しかも特別料金を取らない、つまりは10分診療患者と同じ料金)、といった特別診療をする。
その上で、そうして入れ込んだ特別診療の患者の症例を発表し、症例検討会の指導者から立派な診療がなされたと褒められて終わる、そんなケースカンファレンスが各地でなされている。彼らの臨床行為の裏に、声無き患者、幻覚や薬の副作用に苦しみ、いつ自殺をしてもおかしくない患者がいるが(実際に薬害や自殺で亡くなってしまっている人もいる)、そういう患者さんたちのことは顧慮されない。かように精神科医や心理士は浮き世離れした人種である。もちろん精神科医や心理士の皆がそんなに極端な仕事をしているわけではないが、仕事の力点の置き方のバランスが悪い人たちは結構見かける。
少し寄り道が長くなってしまった。書評の話に戻りたい。
この『ギャンブル依存症サバイバル』に書かれている、著者熊木のギャンブル依存症の治療の話においても、具体的なカネの話がたくさん出てくる。そのオリジナルな治療法である「熊木メソッド」によるギャンブル依存症の治療の始まりにおいては、治療契約として患者家族と「念書」を交わされる。その念書にはたとえば、「クライアントが30万円以上借金をしたのが発覚したら離婚する」といった約束が書かれるという。その念書の設定、「30万円」との具体的な金額を決める際に、「家族成員それぞれの金銭感覚をリサーチすることはかなり重要なこと」と熊木は主張する。そういう状態把握の上での「30万円」の金額設定だそうだ。しかし一方で熊木は、念書に書かれるような固い治療枠だけに縛られず、柔軟性も示す。例えば、依存症者家族の質問、「500万円の借金ができた。夫の副業だけでの返済は無理そう、家族が代わりに返済することは良くないか」に対して熊木は「本人が返済の苦労を理解できれば多少の妥協案(注:妻が返済に協力すること。注は引用者)はOK」と返している。つまり、熊木は「家族成員それぞれの金銭感覚」のみならず、その時点での家族間の愛憎・情愛・信頼・恩義の関係、それまで家族の歴史をも総合的に勘案して金銭に関する設定や助言を行っているのである。たしかにそれは表面的には金銭の話だけをしているように見えるが、その話し合いの裏には依存症者や家族の内省の進行があり、その進行が、壊れかけた家族間の関係修復につながっていく。それは自然な流れであり、理想的なカウンセリングである。それだけに実践的なカウンセリングである。家族の危機と再生の物語がそこにある。本著の後半にある、家族の治療体験記を読めばよくわかる・・・「自分がなんて馬鹿だったかを知った」、「どれだけ家族に迷惑をかけ、悪いことをしてきたかを省みることが出来た」、「(ギャンブルに依存していた過去の)私は何となく自分を大切にしてあげていなかった」、「(妻の体験記:)(夫は)こんなに自分ありきの考え方しかできない人だったんだ・・・(ギャンブル依存の)治療を受けるのは、本人よりパートナーの方が辛いかもしれません。」といった、当事者たちの重要な気づきが得られている。
このように、熊木のギャンブル依存症治療においては、カネの話をしながら、次第に自己の内省、家族関係、生き甲斐、人生の意味につき、考えていかれる。始めは一見皮相な問題のように見えることから話し合い始め、いつも間にか人生の深い問題について考えることになり、最終的に大事な気づきが得られる、というプロセスは、カウンセリング・精神療法の理想形である。
これまで熊木は、精神科薬物の「官能的評価」において、表面的には薬物という「モノ」の話をしながらもその話の中に、精神療法的な話が不可分のものとして織り交ぜられた含蓄のある語りをしてきたが、その臨床センスはギャンブル依存の治療においても十全に発揮されていると、この本を読んで改めて思った。
もちろん、実際の治療現場においては、このような実践は医師一人だけでできることではなく、心理士やソーシャルワーカーらとの連携が必要である(患者や家族の経済状況と心理状態の全てを医者が聴取していたら、とても医者の仕事にはならない。それこそ自分好みの患者に入れあげて重症患者を無視する精神科医と同じになってしまう)。この本では、そのあたりについても、治療実践のコツ、エッセンスが書かれている。私たち精神科医・心理士のチームが仕事を勧める際に必要な、役割分担、職種連携、時間配分、治療の料金設定、という、臨床実務一般に通じる内容ついても勉強になる。その点でも本書は、ギャンブル依存を専門としない精神科医や心理士にも是非勧めたい。
考えてみれば、カネとは不思議なものである。古来から社会において、カネは単なる物の売買や交易の手段だけに使われてきたものではない。私たちは、見栄で多額のカネを使うこともあれば(高価な服や車)、謝罪の意を高額な賠償金で表現するし、愛情の深さを表すのに金をつぎこみ(給料の何ヶ月分もの結婚指輪)、被災者への援助の気持ちを寄付金の多さで表し、神仏からの救済を得るためにたくさんの寄付やお布施を差し出す(免罪符、戒名制度)。
そのように、私たちの自負、虚栄心、愛や罪の意識、救援や贖罪、といった思いや願いの気持ちをカネで表すことを全くしないならば、私たちの社会は成り立たない。個人がその自由にできる範囲のカネをどう使うかは、その人の生き方、その人の美学が表れる。この世においてカネは、愛や罪、善、美学といった、本来的にはカネと無関係である「プライスレス」な価値と切り離せないところがある。とすれば、私たちが渡世の手段として不可欠なカネをどう扱うか、という問いは、私たちの価値・内なる美学を現実としてどう表現するか、という問いと置き換わる。その点で、私たちの診療について言えば、熊木の診療のように、金銭についての話し合いをすることがすなわち生き甲斐・人生の価値といった心の問題を扱うことにもつながりうる。
この現代では、カネの問題は「経済学(エコノミクス)」と呼ばれ、マルクス主義経済学のようにモノの話に矮小化して「唯物論」的な話とされがちであるが、「エコノミクス」の原義は「オイコノミア」、それは「家・共同体」を意味する「オイコス」と、規律・規範・法を意味する「ノモス」という語の結びつきだという。私たちが共同体をうまく運営していく際、共同体の個々の成員の気持ちや生活状況を把握せずには成り立たない。「オイコノミア」は人々の生活や価値観、共同体が共有する理想などが絡む「政治学」と切り離せない意味合いがあった。そうした人間社会・共同体の根本に立ち戻って考えて臨床を行っていくこと、私たち精神科医や心理士が患者さんやその家族と「治療共同体」を作って臨床実践をしていく上で必要な、語源的な意味での「エコノミクス」の感覚を、この本は教えてくれているような気がする。