前回の文章は言葉足らずだった。一度にいろいろ盛り込みすぎてわかりにくい文章になってしまった。もっとたくさんの説明が必要だったと反省する。
今や「トラウマ」という言葉は、普通の日本語となってきており、私の診察室でも頻出する。「あの上司がトラウマになって」とか、「あの時の会議で緊張して声がうわずってしまったことがトラウマになって」などなど、ある人やある状況が「苦手」になった、そのきっかけの出来事を「トラウマ」と表現する人は多い。
ここで今一度心理学・精神医学用語としての「トラウマ(心的外傷)」概念に戻ると、それは、死にそうな経験をしたり残忍な光景を見たり、という、破局的に酷い体験を指す用語であった。そのトラウマを「原因」として生じた精神疾患がPTSDである、とされる。そして一般に、PTSDとは重い病気だとされる。アメリカでも日本でも障害年金や労災保険金の受給対象になり得る。しかし、私の診察室で「トラウマ」を口にする患者さんの多くはそのような重い病状ではない。社交不安障害(SAD)やパニック障害、強迫性障害といった疾患の患者さんが多い。そうした患者さんが「トラウマ」の語を「誤用」しているからといって、それを訂正することに治療的な意味があれば別だが、多くの場合はそうではないのでそこにはこだわらずに話を進めるのが普通だろう。
また、そのような患者さんの「トラウマ」の語の使い方を否定できないのは、彼らが言う「トラウマ」体験、言い換えれば「苦手意識」のきっかけとなった体験、例えば人前で大変恥ずかしい思いをしたという経験によって、本当のトラウマを受けたPTSDの人の症状と同じようにフラッシュバックしたり、「トラウマ」になったのと似たような場面を回避したりするようになるという現実がある。つまり病状として共通するところが多いし、またその治療においては、「恥をかいた」くらいの体験においても、「殺されそうになった」体験でも、同じ治療法が役立つ(認知行動療法やEMDRなど)。このような現状があるから、「トラウマ」という用語の定義はもう少し拡大しても良いのかもしれない。
しかし、何でもかんでも「トラウマ」になったと言って「被害者」感情を抱く人が、自分の「トラウマ」体験のきっかけとなったと見なす相手、例えば父親、会社の同僚や上司に対し、時にはまた、JRやコンビニの店員、運転でたまたま接近した相手など、無関係な人に対しても、ひどく攻撃的になり、怒鳴りつけたり時には暴力を振るったりする人がいる。上司をボコボコに殴りつけたり、同僚に暴言を吐いたり、ネット上に友達や同僚のことひどいことを書きこんだりする人がいる。攻撃された相手側からするとなぜそこまでされたか見当がつかないことも多い。そうして、攻撃する側、された側の双方が患者として受診する。例えば「父親に対してトラウマがあったから」、ちょうどたまたま自分がイライラしていたので当たるべきところではないとわかっていながら、父親と重なってしまったからかもしれないけど当たってしまった、などと反省して話す患者さんも珍しくない。こうして「トラウマ」の意味が拡大して使われている現在、被害者も加害者もあいまいになっていく。誰が傷つけ誰が傷つけられたのか、あいまいな状況となっている。「夫婦ケンカは犬も食わない」ではないが、「傷つけられた」との言い合いの泥仕合のような様相を呈し、双方から「トラウマ」の語が頻回に使われるケースもある。岡野の本『恥と「自己愛トラウマ」』では副題が「あいまいな加害者が生む病理」となっているが、加害者も被害者も「あいまい」になっている世相は私の診察室からも実感する。
「トラウマ」という言葉が氾濫・錯綜しているとも言うべき現在の状況につき、少しは理解いただけたかと思うが、岡野の造語、「自己愛」と「トラウマ」をくっつけた「自己愛トラウマ」とは何であろうか。『恥と「自己愛トラウマ」』では、秋葉原の無差別殺傷事件が例に出される。
世間の耳目を集めるセンセーショナルな事件を題材にして、自分が見てもいないことをさぞかしわかったかのように語る、単なる目立ちたがりの精神科医たちに対し、私は普段から辟易しているので、この本で秋葉原の事件が取り扱われているのは残念な気もする。ただ、これは極端だがわかりやすいケースではあるし、このケースを扱うことに筆者のためらいも表現されているので、良しとしたい。
さて、あの事件につき、岡野の説明によるとこうなる。元々病的といってよいくらいの「寂しがり屋」の犯人KTは犯行前、ネットの掲示板でいろいろ書き込みをすると即座に反応が返ってくるので、「(メッセージをくれる人が)事実上そばにいるのと同じであると感じることができ、一息つけた」。そこでKTの「自己愛」は満たされたのである。社会性を持たない勝手な放言でも、何か社会に承認されているとKTは錯覚した。その錯覚の当然の帰結であるが、ネットの匿名の掲示板なんぞは、「気持ちが通じているようで実は通じていない対人関係」なので、そのうちに彼は「仲間」との齟齬が生じ、離反され、最後は無視された。そのとき、KTに「自己愛の傷つき」が生じ、それは激しい怒りの衝動と変わり、KTは犯行をネット上で宣言してあのような凶行に及んだ。そのうえ、KTは死刑宣告を受けながら自身の手記まで出版した。その本には、あれだけ大変なことをしておきながら本当の意味での反省は見られず、とにかく「誰かに自分のことを思ってもらいたい」という彼の欲望(それは全く病的な身勝手な自己愛的欲望なのだが)だけが、(犯行時に加えて)もう一度満たされた。彼はあの蛮行によりたくさんの人にその名を知られ、さらに出版社から手記を発行してもらってまたも「自分のことを思ってもらえる」機会を増やしたのだ(出版社や読者の見識も問われる。このケースを扱う岡野も私も同罪かもしれない。あのような手記の出版は被害者や遺族の人たちには傷口に塩を塗り込められることになり、やるせないものを感じる。いたたまれない。無差別殺人の模倣犯が相次いでいる現状を考えると、何とかしないといけないと思う。)
ここで、KTがネット上で受けた、「自己愛の傷つき」が「自己愛トラウマ」だと岡野は言う。つまり、勝手に自己愛を肥大化させてたくさんの命を奪ったKTが、「トラウマ」を負っていた、というのである。「本当にトラウマを負ったのは被害者である、あの犯人は勝手に自分が傷ついたと感じただけで、あんなとんでもないことをしでかした。あれを『トラウマ』なんて、何という非常識なことを言うか」との非難の反応が返ってくるのが当然予想される。それは至極もっともな反応であるのだが、岡野の見解では、KTの心の中、もしくは脳の中に起こっている現象としては、PTSDと同じく、「傷つき」体験のフラッシュバックや過覚醒などの症状が生じているのである。加害者の方に「トラウマ」は無い、とは言い切れない、むしろ、こちら側の感情や価値判断をいったん括弧に入れて、現象を直視するならば、彼に「自己愛トラウマ」があり、PTSD症状が生じていた、と言える、というのだ。
実は以前より、殺人犯など加害者にも、凶行の場面がフラッシュバックを起こすなど、PTSD症状が発生することが知られていた。加害者にも被害者にも共通の心や脳の病理が生じている可能性はある(まだ実証はされていないと思うが)。
ただそれでもやはり、他者をひどく傷つけた者が「トラウマ」「心の傷」を負った、というのは、あまりにも身勝手なことではないか。被害者側からするととんでもない話だ。私も、心情的にはそう思う。だから、「自己愛トラウマ」などという用語を使って、加害者側にも致し方がない事情があった、とも受け取られかねない話を展開するのは(岡野の真意はそうではないと私は思うが)、慎重に慎重を重ねる必要があると思う。私たちの臨床現場のみならず、凄惨な事件にも関係するこの話、まだまだ綿密に考えながら進めていく必要がある。