映画『スター・ウォーズ』の新作が話題になっている。私は初期三部作しか見ていないので新作を論評することはできない。でも、初期三部作はそこそこの良作だと思う。神話学者ジョーゼフ・キャンべルが指摘しているが、『スター・ウォーズ』初期三部作には世界の有り様、人間の生き方の一つのモデルが描かれている神話でもある作品だと思う。人間が何のために働くのか、戦うのか、どんな人とのつながりを大事にすべきか、帝国主義の問題、父と息子の避けられない葛藤、国家と個人の関係、善と悪とは何か、といった人生や社会の問題が描かれている。
しかし『スター・ウォーズ』は、神話として見れば単純で原型的なものであり、世界各国に伝わる神話を読んだ方が勉強になると思う(SF映画としては、映像の美しさや物語の叙情性からしても『ブレード・ランナー』にははるかに及ばないと思う)。
『スター・ウォーズ』のファンにはいろいろな人がいると思う。そこに出てくる「R2-D2」「ダース・ベイダー」などのキャラに魅せられたオタク系のファンもいると思うし、先に述べた神話的なストーリーに魅せられた人もいると思う。
しかし『スター・ウォーズ』は、神話として見れば単純で原型的なものであり、世界各国に伝わる神話を読んだ方が勉強になると思う(SF映画としては、映像の美しさや物語の叙情性からしても『ブレード・ランナー』にははるかに及ばないと思う)。
『スター・ウォーズ』のファンにはいろいろな人がいると思う。そこに出てくる「R2-D2」「ダース・ベイダー」などのキャラに魅せられたオタク系のファンもいると思うし、先に述べた神話的なストーリーに魅せられた人もいると思う。
もし『スター・ウォーズ』の神話的な側面に魅了された人ならば、世界の古い神話を読むと良いだろうし、ドイツ文学の教養小説(Bildungsroman)を読むのも面白いと思う。「教養小説(Bildungsroman)」とは、主人公の青年がいろいろな人々の考えや教養に触れながらその成長、自己が形成(Bildung)される形を取り、その読者も精神的成長を得る小説である。昨今ではその形態がまどろっこしいとか、その啓蒙主義的な「上から目線」に嫌悪感を持つ向きもあるかもしれないが、一つの文化的成熟の形として一度は読んでみて損はないものだと思う。
私は最近『魔の山』(トーマス・マン、高橋義孝訳)を読み直し、20代に読んだときにはわからなかったことをたくさん知り、勉強になった。
たとえば、テロ事件多発のこの現代を予見していたかのような、こんな表現がある。小説の登場人物、イエズス会修道士ナフタ氏の言葉である:「未来の革命の結果はーー自由であろうなどとお考えでしたら、それは間違いです。自由の原理はこの五百年間に成就され、時代遅れになってしまったのです。今日なお啓蒙主義の娘をもって任じ、批評、自我の解放と育成、絶対視された生活様式の廃止などを教育手段として見なす教育学ーーそんな教育学はまだ美辞麗句による束の間の成功を博しうるかもしれませんが、その時代おくれの性格は識者には疑う余地のないものなのです。真に教育的なすべての団体は、あらゆる教育学の存在にもかかわらず、事実上つねに重要なものは何かを、以前から承知していました。つまり、要は絶対命令、鉄の束縛、紀律、犠牲、自我の否定、人格の抑圧なのです。最後に、青年が自由を喜ぶと考えるのは思いやりのない誤解にすぎない。青年のもっとも深い喜びは服従なのです」、「自我の解放と発展に時代の秘密と命令などがあるのではないのです。時代が必要とし、要求し、やがては手に入れるであろうところのもの、それは--テロリズムです」
ここには、現代の青年が「自由の原理」に裏打ちされた啓蒙主義的な教育を受けてもそれでは「自我の解放」を得られず、「もっとも深い喜び」として、「絶対命令、鉄の束縛、紀律、犠牲、自我の否定、人格の抑圧」という「服従」をあえて選びテロリズムに走る心理や論理が描かれている。
『魔の山』が難しければ、村上龍の『オールド・テロリスト』も現代的な「教養小説」の形の一つとして見て良いと思う(『魔の山』と違い、情けない中年おやじが主人公だが)。
この21世紀において、太平洋戦争を経験した老人たちが日本人を目覚めさせるべくあえて日本国内でテロ事件を起こすという、奇矯なストーリーである『オールド・テロリスト』にはこんな表現がある。「みな、死にたがっている。それに、死なないために何をすればいいか、知らない。だから、わたしたちは、彼らに生きる上でもっとも大事なことを教える。それは、自分であり続けるということ。自分という存在を維持していくのは、とてもむずかしいし、誰もそのことを教えてくれない。今の世の中、自分が自分であることがいかに大事かという、真実を忘れさせてくれるものだけが横行しているわけです。宗教しかり、マスコミ、テレビしかり、ドラマから娯楽番組、歌とか芝居、就職や企業での仕事や作業、全部といっていい。自分が自分であり、本当の自分を生きていくしかないという事実は、とても辛い。そのことをごまかすこと、ごまかしてくれる何か、それだけ人気があるし、商売にもなる。わたしたちは、そんなごまかしが許せない。許せない場合は、破壊するしかない」、「年寄りの冷や水とはよく言ったものだ。年寄りは、寒中水泳などすべきじゃない。別に元気じゃなくてもいいし、がんばることもない。ましてや上半身裸で高山を駆け上がる特別なジジイを国営放送が紹介するなんて、あってはならないと決まっているじゃないか。年寄りは、静かに暮らし、あとはテロをやって歴史を変えればそれでいいいんだ」
こんな表現の中に、現代人に稀ならず見られる心理としてリアリティを感じるのは私だけだろうか。もちろん、私はテロリストやテロ行為を称揚するものではない。トーマス・マンも村上龍も同じくテロリズムを礼賛しているのではない。無辜の人々を殺すことを是としているのではない。ただしかし、小説の中で展開される話は、現代に生まれて「生きる上でもっとも大事なこと」を真剣に考えた人の一つの結論として、一理ある論理や心情であることをわからなければ、現代のテロリストたちの心理は理解できないと思う(ナチスもオウム真理教もイスラム国も全て異常な指導者たちのなしたこと、という表層的な理解にとどまるだろう)。
トーマス・マンや村上龍の小説よりももっと直截で、現代の状況の本質を的確に表す文章については、最近こんなものにも出会った(こちらは小説ではないが)。「自分の人生の意味がより大きな全体の中の一機能であると感じることは、強い自我意識をもつこととまったく相容れないことである。・・・西欧の資本主義と急進的イスラムとの闘争においては、信仰の不足が信仰の過剰に敢然と立ち向かっているのだ。・・・信念、信仰に関して言えば、ポストモダニズムは身軽な旅を好む。つまり、信念は確かに持っているが、信仰は持たないのである。」(『人生の意味とは何か』T・イーグルトン)
「ポストモダニスム」の時代、21世紀の日本に住む私たちの多くは「強い自我意識」を持ち、「信念は確かに持っているが、信仰は持たない」か、信念さえも持っていない。そこに自他への攻撃、すなわち抑うつ・自傷やテロ行為に及ぶ考えが生じる余地が大いにあると思う。私の診察室にもそうした人々が増えている。いや、それは別に診察室に来る人たちばかりではない。私自身もそうであるが、いまだ生き方に迷っている人々に対し、いろいろな教養小説を読むことを勧めたい(そんなフィクションを2、3冊でも丁寧に読み込めば、安易にテロ行為を実行しようとする気持ちはなくなると思う)。
『スター・ウォーズ』の話からかなり脱線してしまった。奇妙な三題噺になってしまった。しかし、フィクションであれ現実の事件であれ、ある人間の置かれた状況、その時代背景について知り、想像力をよく働かせることが真に他人を理解することになり、しいては私たち自身の生のあり方を考え、私たちの人生を豊かにすることにつながると思う。映画見ても小説読んでもテレビのニュースで事件の話を聞いても、それを「情報」として処理するのではなく、よく考えて想像力を働かすことが大事だ。