前回、自分で読み返してもヘンテコな文章を書いた。誰が誰に向かって書いているのかわからない文章だ。当の本人が疑問に思う。恐山のイタコが書いたのかと思える。実名で仕事をし、あんな文章を書いておれば、患者さんから敬遠されそうだ。ある種の狂気の沙汰と言えそうだ。精神科医はおかしな人間が多いと、どこかの誰かさんがわざわざ一冊の本にまでして書いていたが、私の書いたものを読めば格好の材料にされそうだ(もっとも、誰も読まないブログで書く、無名の医者には心配無用な話だ。)。
「木の芽時」と一般に言われるが、2月の後半から3月末くらいの間は患者さんの変化が多く、病状の悪化や自殺などが多い時期であり、毎年落ち着かない時期だ(桜も終わった今頃は少しホッとする。)。それに加えて今年の春先は、私には個人的な悩みもあった。家庭も持って社会生活を営む人ならば誰でも持ちうるような、ありふれた諍いに関する、他愛もない悩みであった。ただ、悩んでいる当人の頭の中では、同じ思考がグルグルと回り、収拾がつかない状態になっていた。そこで、古くからの友人に相談してみた。
実業の他に文筆もして生計を立てているその友人は、私の連絡を受けるとさっそく時間を取ってくれて、食事をおごってくれた。悩みで食欲が失われていた私を、焼肉屋に連れて行った。私の悩みを聞いて、「ふんふん、…どうしてそうなるんだろうな、俺の場合はこうだけど…」などと親身になってくれたかと思うとすぐに、「ところで最近の俺、こんなことを書いていてさ、どう思う? これ読んでみて。」「ソフトバンクの孫さんってね、」「野田総理大臣っていったい何を目指してるんだろうね。」などと明るい調子で、私の悩みとは無関係の話をどんどんしていき、焼き肉をバクバクと食べ続ける。彼の話は途切れることが無い。(この人、好き勝手喋って食べて、マイペース…)と思いながら聞きつつも、不思議とこちらの気持ちが整理されてくる。彼とは境遇や仕事や生活が異なるところがあっても、彼の生き方や価値観が私と違っていても、何かが私に伝わってきて、私の小さな悩みは氷解した。振り返ってみれば、彼の話は、彼自身の個人的な体験や人生観として語られながらも、悩みを相談している立場の私が引き込まれて共有できる話になっていた。どちらがどう悩んでいるのか、何をどう考えているのか、よくわからない雰囲気になっていた。ただ、彼の話題がどう変わっても、どの話にも他者への温かみが通底しており、彼の話は彼本人が意図したかどうかは別にして、私の悩みを解決するための隠喩やアフォリズムになっていた。ほんとうに「気が合う」対話とはそういう状態を指すのだろう。しかし、もしあの場で彼が、単に私の悩みと同調するだけで一緒に嘆いたりするだけだったならば、悩みの解決にはならなかっただろうし、私はかえって悩みを深めていただろう。ブッダは、「人が悲しむのをやめないならば、ますます苦悩を受けることになる」「己が悲嘆と愛執と憂いとを除け。己が楽しみを求める人は己が(煩悩の)矢を抜くべし」(中村元訳『ブッダのことば』岩波文庫)と語ったというが、これは世俗に生きる私のような小さな人間の悩みにとっても教訓となる。
あの晩に彼と話して、私に刺さっていた「煩悩の矢」が全てではないものの、ずいぶん抜けかけた。私の中の解決能力が引き出され、私の元気が回復した。その夜に、先回のブログで書いた、あの夢と覚醒を見た。それまで私の中で「トラウマ」とは意識していなかったが、「矢」のように突き刺さっていた、十数年前のあの体験は(それと無関係の辛い体験をまとめた象徴であったようにも思えるが)、忘れることはできないものの、悪夢やフラッシュバックのような形では出てこなくなった。小さな悩みが消えると同時に別の大きな苦悩も消えるという、不思議な体験になった。
私の親友のような、本当に知恵と優しさのある人から善意を受けると、もちろんその相手に恩返しをしたい気持ちが生じるが、また別の他人にも何か親切をしてあげたくなる。その後の私は、街中で障害者からものを尋ねられたり、老人から道を尋ねられたり、観光客からカメラのシャッターを押すのを頼まれたりすることが増えた。タクシーに乗れば運転手から親類の健康についての相談を受けて降車するのに時間がかかったこともあった(診療前で時間があまりないので少し焦ったが)。道を尋ねてきたおばあさんとは一緒に駅まで歩きながら話し、そのおばあさんの子や孫への愛情にあふれた話を聴き、こちらもほのぼのとした気分になり嬉しくなった。また、私の腰痛が強まったあの頃、普段から物静かな患者さんが、手編みの敷物を持ってきて控えめに置いていって下さった。患者さんの方が医者の私の体を気遣って察して下さったのかと思うと本当に頭が下がる。別の機会では、先の私の悩みの解決について、今まで仕事上だけの関係で付き合っていた人が一肌脱いで下さり、力になってくださった。 そうしてまた私は別の人に次の親切をしてあげたくなった。
「情けは人の為ならず」のことわざの意味を、頭ではわかっていたものの、実際の体験を経て、身にしみた。(この年になってこんな当たり前のことを言っていて恥ずかしくもあるが、このような大切なことわざの意味につき多くの人が誤解をしているのは残念に思う。)
しかし、もし私が自分の苦しみを癒やすという見返りを期待して他人に施しをするのなら、結局は「我執」の行為であり、それならば素直に「助けて」と言った方がずっといいと思う。自然なかたちで他人に対して慈しみの気持ちを持ちながら接していれば自分も報われていくというのが、「情けは人の為ならず」の肝要なところであろう。
このことわざに表れているように、善意は連鎖していく。私は個人的に接する限られた人にしか善意のバトンタッチをできないが、先の友人のような文筆家はその著作を通して世の中のたくさんの人に善意を伝えている。彼のバトンを受け取った者は次の人へと伝えていくだろう。そういう、たくさんの人の救いになる活動を私も支援していきたいと思う。
地域や組織の中でますます個々人の連帯が薄れていくこの現代において、福島原発のメルトダウンの収拾がつかない状況の現在において、人と人との「絆」が強調されるが、草の根の善意の連鎖反応を作っていくことこそが今の日本に最も必要ではなかろうか。
私の領域で言えば、現代社会で急増する「うつ病」が「生活習慣病」であると言われることがある。一口に「うつ病」といっても千差万別で、そんなに簡単に言い切ってしまうには問題が多いが、たとえ「うつ病」で苦しいからと言って、(ブッダが言うように)「悲しむばかり」でいるならば、「ますます苦悩を受ける」と思う場面もある。最近はうつ病の治療に瞑想が良いとも言われるし、日々の生活に感謝の意を持って生活するのが良いとも言われる。以前からそうしたことを感じてはいたものの、私は個人的な悩みと癒やしの体験を通して少しだけ体得した。
ただし、この世の中、善意だけで渡っていくのは難しい。他人の善意を悪用する悪人や団体が多いのは事実だ。営利・集金目的の新興宗教、オレオレ詐欺、大震災後の募金詐欺、助け合いムードに乗っかって消費税増税など次々と無茶苦茶な政策を打ち出す民主党、などなど、いろいろなところにそれは表れている。善意と誠意だけでもって接すれば相手に利用されるばかりの搾取に遭って致命傷を負う危険もある。生きていくためには知恵と工夫も必要だ。情に棹さすだけでは流される。とかくにこの世は住みにくい。