睡眠中に夢を見ることが多い人と少ない人がいる。夢を見ても、いろいろな内容の夢を見る人がいれば、同じような場面を繰り返し見る人がいる。私は「夢分析」をする精神分析を専攻してもいないし、「夢占い」的に夢を解釈する(夢に蛇が出てきたら金持ちになる予兆、などとする)こともしていないので、日頃の臨床では、夢内容を「解釈」することはほとんどしない。患者さんの夢の話は、睡眠の質を示す一要素くらいに参考にする程度である。
それでも時々、臨床の場面でも私の個人的な夢にも、フロイトが言うように夢内容が夢を見たその人の心境を象徴していると思う時がある。
私自身の時々見る夢言えば、「入院患者の回診に行けなかった(回診に行き忘れた)」という夢がある。精神科病院に勤務していた時、主治医として担当する入院患者が50人を超える、という状況があり(こうした状態は、他の診療科と違って「精神科特例」として認められている。その病院が特殊であったわけではない。)、その環境では私が毎日全患者を回診して回ることはできなかったので、度々にわたり、「見落とした」患者がいなかったかと気になった。ただ、外来患者と違って病棟に入院中の患者なので、看護師が24時間常駐して患者を看てくれているから急な病状変化があれば看護師が私に連絡してくれるので、その連絡を待っていればゆっくりしていてもいいという面もあった。実際、精神病院に限らず、看護師が連絡してこない限りは医局というダグアウトで煙草を吸い続けながら本や週刊誌を読んでばかり(IT社会の現在ならネットサーフィンばかりしているのかな)、という医者はどこの病院にもいる。彼らは病院の勤務医は楽だという。しかし現実には、看護師に呼ばれなくとも自発的に主治医が気になる担当患者を回診して(遠目で顔色だけでも見て)、その時点で必要と判断した適切な対応をすれば病状の急変や事故を防ぐことができるというケースがいくらかある(工場で事故防止を実践している人なら、きめ細かい目で巡回することの大事さを知っているだろう。)。患者の詳細な経歴を知る主治医だからこそ危険を予見できることがある。その一方で医者の身は一つしかないので、私の場合、外来や他の緊急性の高い患者の診察に忙殺され、「顔色だけでも見ておく」べき患者の診察を忘れていた、ということは度々あった。現実にあったそういう場面では、あわてて回診に行ったり夜遅くに病棟に電話して看護師に状況を聞いたりして何事もなかったと聞いて安堵していたが、私の夢の中では「回診を忘れていた」という不安や後悔、焦りの場面で終わる(確認して安堵した場面では終わらない)。まことに後味の悪い、それゆえに覚醒してからも記憶に残りやすい夢である。「悪夢」に分類してもいい、不健康な夢だと思う。
外来診療ばかりしている今でもこのような夢を見るのは、やはり、現在の自分の仕事に十分に納得できていないところがあるのかもしれない。自分の時間と労力を、必要な患者さんのために十分に使えていると、自信が持てていないからかもしれない。
精神分析を専門とする人ならば、また、私を知る同業者ならば、この夢を別様に解釈されるかもしれない。それは私にはわかりえない、「無意識」に属することだと考えるのが精神分析の考え方だ。
精神分析という、学問なのか臨床方法なのか未だに私には理解できていない体系は、「神は死んだ」と言われたという100年ほど前のヨーロッパで、フロイトらによって作られた。精神分析では、すべての人間には多かれ少なかれ根拠のない不安や「原罪」意識があり、それは日中には意識外に追いやられているが、睡眠中には抑えることができなくて夢の中に入り込んでくる、などと説明した。宗教は幻想だ、と説いたフロイトも、原罪意識は根源的に人類普遍的に存在するものと考えていたようである。
悪夢のようであるが、昨年は、東日本大震災と原発事故、欧州金融危機、TPP参加表明、ビン・ラディン殺害事件、などが起きた。これらは私の個人的悪夢をはるかに凌駕している。私たちの日中の覚醒した意識の中に、悪夢以上のものが出現したという言い方が正確かもしれない。ただ、これらの出来事は、以前から起こり得ることとしてわかっていたのに、「見ておく義務はなかったが見るべきであったものを無視していた」ために起きてしまった、という点で私たちの罪悪感を刺激したと言えると思う。
私個人の思い出としては、高校生の時、不遜にも原子物理学なる難しい学問に進もうかとも考えていた時、東京のある大学を見学したときに大学生協にあった書評冊子を見て、『東京に原発を!』との挑発的な題名の本を読んでみた。「絶対安全だという原発ならば福島県などより東京湾に作った方が送電線による電力ロスが無くなり合理的ではなかろうか」といった単純な話が書いてあったと思う(さすがに四半世紀前のことで内容の詳細は忘れた)。この著者の皮肉が証明されてしまったように、「絶対安全」ではなかったことが昨年の事故で明らかになった。しかも、事故の後処理がほとんど収拾不可能であるという事実が明らかになった。そういう危険性を「見なかった」ことについては、たとえば私たち一般市民に法的責任はないが、やはり道義的な責任はあるだろう。
ビン・ラディン殺害事件も同様である。「テロとの戦争」では、「大量破壊兵器」を持っていなかったし、国連の査察も全面的に受け入れると降参したサダム・フセインを無視してイラクに爆撃を仕掛ける、という蛮行を起こし、一連のアメリカの軍事行動の裏の経緯を知る重要人物であるビン・ラディンもまた、丸腰の状態なのに殺されて証拠隠滅された。日本は、この「戦争」の是非を問うこともなく、たくさんの資金援助をしてきた。戦地にされたイラクの市民については「見て見ぬふり」を続けてきた。
ニーチェは、『ツァラトゥストラ』(岩波文庫、氷上英廣訳)の中で、「睡眠をうやまう」「徳」を説く、「聖人」を登場させた。その聖人は「よく眠るためには・・・すべての徳を持たないといけない」とか「官憲をうやまい、服従しなさい。たとえ曲った官憲であっても! よい眠りにはそれが必要だ。」などと聴衆に説いた。ツァラトゥストラは、その聖人を「ほんとうに眠りに長けている者」と皮肉り、「このような眠りは(人々に)伝染する」と語った。体が要求するところの睡眠を充実させること(つまり身体的快楽を大事にすること)が究極的価値と説かれ、それに賛同する大衆のパロディである。この節を読むと、バブル期の日本を連想する。バブルが崩壊しても長きに渡って私たちは、あの「聖人」ように「IT長者」たちをあがめ、「曲った官憲であってもうやまって」、「原発村」の人々やアメリカ政府の横暴を黙認して長年に渡りよく眠れていたが、昨年はそのツケというわけでもないのだろうが、覚醒時に大悪夢を見る憂き目にあった。
「予見できたのに予見しなかった」と責任が問われる例としては、医療事故や鉄道事故裁判がある。先日のJR西日本の脱線事故裁判では、社長は無罪とされた。運転手に秒単位の過酷な運行スケジュールを強いておいて、守られないと「日勤教育」なる制裁を課す、というシステムを指揮してきた組織の責任者は法的責任を問われなかった。法的には仕方ないことなのだろうが、この日本の制度的問題を表す一事例だろう。
日本は「中空構造」だ、とユング派精神分析学の故河合隼雄先生は語っていた。実態はどうであれ名目上の権力・責任を持つ人間に対して責任を問わない、この日本の生ぬるい体制について(例えば、太平洋戦争の名目上の最高責任者であった天皇に対しては戦争責任を問わない日本的心性について)、「中心が空虚(無責任)」だとして「中空」だと表現していた。河合先生は、日本人が組織を作ると、名目上は「最高責任者」であっても実権を伴っていなかったり無責任な振る舞いをしたりしても許される組織構造を「中空」と表現されていた。これは本当に的を射た表現だと思う(中国では昨年の鉄道事故に関して担当大臣がすぐに更迭されたことと比べると対照的だ。日本の責任者はお気楽なものだ。選挙で喧伝したマニフェストなる約束をことごとく反故にしておいて恥じるところのない総理大臣によく表れている。)。ただ、責任者に責任を問わないという私たちの姿勢は、本当は私たち自身の無責任な姿勢の表れだと思う。日本的な組織の中ではそれが当たり前だとする、悪い「甘え」と言える(こうしたことはよく「甘えの構造」と評されるが、精神分析の土居健郎先生の『甘えの構造』は表題だけで誤解されて、日本人の悪しき甘えを非難しているとしばしば誤解されている。「正しく甘える」ことは人間の成長過程や社会関係で大事な事なのだが。)。
昨年の数々の災厄は、人災や国家的犯罪というべき要素が大きいが、これらの問題に直面した今、覚醒時にはちゃんと覚醒すべきでなかろうか。これまでの20年は、「失われた20年」と言われるが、その前のバブル期から数えて30年余、我々は現実を直視せず白昼におかしな夢を見て集団で狂っていた(ツァラトゥストラが言うように「眠りが伝染」していた)。昨今喧伝される「絆」「がんばろう日本!」という情緒的なフレーズは、生産的なところもあるとは思うが「情に流される」危険も大きい。そうした国民感情の動揺にかこつけて今の政府は、昨年までの数々の不手際は昨年末で水に流したかのように居直った上に、年が明けると次々と将来の不安要因を出してきて(50年後の日本の人口が3分の2になる、とか、年金制度が破綻するとか)、「すぐに答えを出さないといけない」と不安にして畳み掛けてくる。不安をあおって単細胞的な思考に誘導するのはヒトラーでもブッシュでも『ほうっておくと怖い病気』とかいうTV番組でも同じ手法である。そうした動きに惑わされないようにしたい。精神分析は、夢の内容や情感から連想される事柄につき、医師も患者も時間をかけて、いろいろな連想を働かせ、考え、無意識に追いやって見てこなかったものを意識化する、といった手法で治療していた。この現在の日本の病理を根本的に癒すためにも、しっかりと腰を落ち着けて考えていく必要がある。
今年は「ゆっくり、しっかり考えよう日本!」をキャッチフレーズにしたいと思う。(と、誰にもウケない白昼夢のようなことを書き続けるのもいかがなものか、精神分析治療を受けないといけないのは私なのだろう、などと思う今日この頃である。)