私は、貧乏な家庭に育ったので、何か本を読みたくなった時には、公共図書館が重宝した。私が育った名古屋市には、名古屋市立中央図書館と愛知県立図書館という大きな図書館が二つあり、一般貸出が普通にされていた。よほどの専門書でなければこの二つの図書館のどちらかにはあったので、重宝した。就職した後に住んだ兵庫県の県立図書館や神戸市図書館では、事情が異なり、蔵書がやけに少ないか、貸出にややこしい条件が必要であったことには、とても寂しさを覚えた。
最近は、電子書籍が本に取って代わる可能性があるとのことで、何人かの作家が、危機感を表明している。彼らや出版社の人の生活を考える時、気持ちがわからないわけでもないが、基本的に印税を当てにして文章を書くというのは、倒錯していると思う。太古の昔から、著作権など全く無い時代から、パピルスなどの記録媒体が高価な貴重品であった時から、人はたくさんの文章を書いてきた。文字ではないが、ラスコー洞窟の壁画なども、絵を描いて生計を立てようとしたものではないし(あの絵を書く労力で何本もの槍が作れただろう)、昔話の類も、売るために作られたものではなかっただろう。人間が文章を書いたり、絵を描いたり、音楽を奏でたりしてきたのは、本来は生計のためではなかったはずだ。金銭を得るためにものを書く、というのは、二重に倒錯している。金銭はあくまで価値そのものではない。金銭は何かをなすための手段にすぎない。だから、ものを書いて金銭を得ようとする、というのは、書くことそのものの価値を認識せずに、究極的な価値でもない金銭を得ようともくろむ、という二重の倒錯がある。
著作で生計を立てる、もしくは一山当てようという動機で書かれたものは、現代では世にあふれている。そうしたものは読むに値しないか、せいぜい一時的な「情報」を与えるだけの、読む「賞味期限」が短いものだと思う。
それに比べ、生前に著作をほとんど公開しなかった作家のものは面白く、「賞味期限」が長いものが多いと思う。彼らの著作は「情報」ではなく「知恵」を与えてくれる。この100年ほどの中でも、カフカ、宮澤賢治、シモーヌ・ヴェイユ、ニーチェ、ヴィトゲンシュタインなど、何人もの著者が思い出される。
著作権を声高に主張する人は、自分がオリジナルな物を書いていると思っているらしい。しかし、例えば音楽家の坂本龍一はそういう似非オリジナリティを批判する。彼は、自分の作曲のうち、オリジナリティは1%に過ぎない、99%は今までの音楽家の何らかのコピーである、何か自分の独自の発想で作ったと思っても、知らず知らずのうちにクラッシック音楽や民謡などの影響を受けて無意識にコピーしてしまっている、といった話をしていた。創作ということをちゃんとわかっている人の至極妥当な考えだと思う。
西洋でも、同じようなことは言われていて、ダンテだろがニーチェだろうが、結局は聖書の焼き直しや解釈学であるとしばしば言われる。かの文化圏でthe bookと言えば聖書、その他のbooksはthe bookのコピーであるとの考え方だ。極論だが、本質をついているところもあると思う。
建国当初のアメリカ合衆国は、そうした敬虔なクリスチャンの良識もあってか、「コピー」であるbookには著作権を設定しない、もしくは、著作権を設定してもごく短い年限にしていたというが、それは段々延びてきて、最近では、100年もの長きに渡って著作権を設定しているという。100年とは一般の人間の一生よりも長い期間である。ということは、不動産や株などと同じように、著作権の相続、がなされているのだろう。相続には原作者の意思は関係ないのだろうか。ディズニー映画の著作権が相続されるのはどちらでもいいような気もする。しかし、古代の先人たちのように、本当に無私になって魂からほとばしり出るものとして書いたか、ただ神に向かって告白するように書いたような、賢治やヴェイユのような人の著作につき、親族が著作権について醜い相続争いをする姿を想像するとかなり気持ち悪い(そんなことは起きないのでしょうが)。
このところ議論中のTPPが締結されると、アメリカは日本にも著作権の期間延長を求めてくるようだ。著作権が長くなればなるほど、比較的最近の本の値段は高価になり、図書館の書籍購入費も増大するわけだから、結果的に貧困な図書館となってしまわないか。翻訳本の誤訳が多くても改訂訳が出しにくくなる。それでは図書館通いする少年も減っていくばかりだろう。
グローバリズムの時代にまず習得すべきは英語か中国語、というさもしい価値観(を持たざるを得ない)の次世代は、古典に学ぶこともなく、先人たちからたくさんの知的資産を引き継いだという感謝の思いも持たず、同工異曲的なものを書きながらもそれを自覚せずに自分で何かオリジナルなものを作ったと勘違いしていくのだろう。「自己責任」と声高に言う「自己愛」人間が増えているがそれは加速するのだろう。アメリカ建国の賢父たちは、こんな世界を望んでいたのだろうか。