私は声の良い人が好きだ。最近目は老眼が入ってきて不自由もあるが耳は悪くないので、今も声に敏感だ。年齢は問わず、やや低めで温かい丸みを持った声が好きだ。最近のテレビのアナウンサーは声の質が落ちた。NHKでもどこでも、最近のアナウンサーの声はAKB48の子供たちの声のように幾分かの無理な緊張を含んでおり、携帯電話の着信音のようにキンキンとして尖っているところがあるので、聞くのに疲れる。ひどい声を聞くと不眠になったり苛立ったりすることもある。私と同じような感覚を持つ患者さんにも少なからず出会う。
精神科・心理臨床の現場では、語られる言葉の内容ももちろん大事だが、語りの声のトーンやスピードも大事だ。幻覚妄想状態や重い認知症など、病理が重い人に接するほど、言葉の内容よりも声の質や姿勢など、ノンバーバルな要素の方が治療的に大事になってくる。それを私は石垣島の臨床で思い知らされた。あの八重山の島々には、本当に声の良い人が多い。あの島々から著名な歌手が何人か出ているが、私は素人でもプロの歌手以上にいい声で歌える人に出会えた。彼女に目の前で歌ってもらうと何か深いところが動かされた。彼女の声の中に彼女ではないものが、それは祖先や自然の力なのかわからないがとにかく何か大きな力が、彼女をして歌わせているようにさえ感じた。
あの島々での診療は、重い病理の人の診療に追われていた。未熟者の私は、小説『変身』のザムザ氏のように精神の危機的な状態にある患者さんを前に、声や姿勢のチューニングができず、殴られることも何度かあった。そんな時、看護師が横から患者さんをなだめてくれ、事が収まることがしばしばあった。その看護師の語りは言葉にすれば内容が無いことも多かった。「まあ、まあ」とか、「んん」といった間投詞だけのこともあった。それで興奮した患者が落ち着く。時には猛獣使いの技を見ている感覚になった。
患者さんを「猛獣」呼びするとは、と怒る人もいるかもしれない。それは人間観の違いだろう。私は、自分の中に「猛獣」や狂気の要素があると自覚するし、犬や猫とも仲間だと思うところは多い。犬や猫にもPTSDやうつ病があるのではないかと思う。ただ、動物たちは言語を持たないので、病状や回復過程がずいぶん違ってくるのだと思う。
石垣島で2年の研修を終える頃になると、相変わらず私は看護師たちのような良い声を出すことはなかなかできないものの、患者さんの声や身振りなどノンバーバルな要素から回復を見て取ることが少しはできるようになった。ある時、暴力行為が元で入院している患者さんに看護師詰所で包丁を使って刺身を作ってもらった。それを見ていた関西からの見学医師は驚いていた。
石垣から神戸に戻った後、いろいろな精神科医と仕事を共にできた。その中の一人の先生は、話の内容も面白い人であったが、人を落ち着かせる良い声の持ち主であった。彼は長年格闘技をしてきた有段者だが、忙しい中でも難しい局面でもいつも泰然としており、親切で温かい人柄であった。それでも彼は自分の性格や態度をほめられると、「『格闘家に人格者なし』(だから自分は人格者ではない)、ですよ。」と笑って返した。自分は幼少時からケンカばかりしていて、自分の小学校内ではケンカ相手もいなくなったので遠くまでケンカ相手を探しに行ったとか、格闘技をしてからも、いろいろ変な癖を持つ格闘家に会った、などと面白おかしく話してくれた。
声というのは、言葉の内容と違って、発話者の無意識の動きを表しやすい。患者さんに限らず、声と言葉の内容のバランスが取れていない(例えば、深刻な内容なのにどこか気持ちの入らない平板な口調)時は、話の内容や論理を丹念に追ってもコミュニケーションにならない場合が多い。言葉より声などノンバーバルな要素に注目する方が良い場合が多い。声は嘘をつくことが少ないように思う。先の格闘家の彼は、自分の無意識の中にある強い衝動性と苦労しながらもうまく付き合ってきて、意識と無意識との間、もしくは心と体との間の風通しの良いバランスになったのだと思う。だからこそ腹から良い声が出るのだと思う。そういう人は信頼できる。
良い声を持たない私が言うのもおかしいが、昨今の日本人の声質の変化は、体と心の危機の表れの一つだと思う。