先回、石垣島での経験について触れた。石垣島というと、珊瑚礁に囲まれたエメラルドグリーンの海、赤瓦の家、人情に厚い気さくな人柄、など、楽園的なイメージを思い浮かべる人が多いと思う。
その石垣島にいる時、バーで飲んでいると、隣にテレビで見たことのある人がいた。欧米のある国の出身で、日本の風土に魅せられ、日本に移住したという作家の方であった。私が話しかけると、気さくに話に応じてくださった。世界あちこちと日本の自然について、いろいろと面白い話をしてくれた。しかし、私がこの島で精神科医として働いていると話すと顔が曇り、「こんないいところに精神病になる人なんているの?」「こんな環境のいいところで心に変調をきたすなんて考えられない」と返され、「聞きたくないモード」になった(こんな話の流れは精神科医なら時々経験することだ)。「人は自然のみに生くるにあらず、ですよ。」とか、「あなたの祖国を含めた連合国との50年前の大戦が沖縄に今も影を落としているのですが・・・。」とか返すこともできたが、ゴーギャン的な自然ロマンティシズムを持って南の島に遊びに来られている人の気分を害してもいけないので、そういうことは言わなかった。
風土・自然は、確かに精神衛生に影響を与える。私の診療所でも、湿度が増える梅雨入りや台風前に病状が悪くなる人、「冬季うつ病」のように秋の後半に日照が弱ってくると病状が悪くなる人が多々いるのは確かだ。ただ、人間は自然とだけ相対しているわけではない。誰とも喋らず一人で狩猟採集だけして生活している人はいない。「未開」「発展途上」とされる文化圏でも、宗教や儀式、各種のタブーなど、いろいろな社会ルールがある。また、資本主義が地球上を席巻した今や、どんな辺鄙な奥地であろうがこの地球上では(宇宙までもか?)貨幣経済の網がかかり、お金を全く使わずに生活することは無理となった。我々の心のあり方は、自然以外にも、文化や政治、経済などによって大きく左右される。
沖縄と、こちら内地とでは、歴史、文化や経済状況(私が沖縄にいた時は平均収入で2倍の格差があった)などの様々な違いがある。太平洋戦争の時、日本では唯一沖縄だけが地上戦の地になったこと、戦争が終わっても30年の長きに渡ってアメリカの統治を受けていたことにつき、本土の人の中に全く知らない人がいることはまずいことだと思う。もう少しマイナーな話だが、高校野球の応援にも使われる有名な曲、喜納昌吉の『ハイサイおじさん』の背景を知らない人も多いだろう。
『ハイサイおじさん』の「おじさん」のモデルは実在の人物で、喜納昌吉の近所の人らしい。「おじさん」は喜納より上の世代なので、「おじさん」夫婦は凄惨な沖縄戦を体験したのだろう。彼らの生活状況など詳細は知らないが、おじさんはアルコール依存に、おばさんは精神病になり、おばさんはついに幼い娘の首を包丁で切り落とすという行為に及んだことは現実のことらしい。二人とも戦争よるPTSD的な病理を持っていたかもしれないし、戦後の貧困による困窮も二人の精神変調に影響したかもしれない。こんな悲しい背景があの明るい調子の歌の背後にあるそうだ。
私が石垣にいるとき、病院に残る精神科の過去すべてのカルテを読んだことがあった。それは大量なので、もちろん詳細は読めていないが、大まかな経過や病名は見ることができた。あの島々にも、いわゆる躁うつ病や統合失調症の患者さんはたくさんいた(と言っても統計的に人口比でこちら内地より多いかどうかはわからない)。アルコール依存症は明らかにこちらより多いようであった。逆に、うつ病は極端に少なく、強迫神経症や摂食障害(拒食症・過食症)は皆無であった。躁うつ病や統合失調症、アルコール依存症などの疾患については、貧困が一つの発症誘因のように思われるケースが結構あった。沖縄は一般に子だくさんで、どうしても内地に就職せざるを得ないことが多く、内地の工場などに集団就職して不適応となり発病して帰郷したケースも目立った。私の接した患者さんの何人かは、「内地は本当に何でもいろいろ細かいねー。よく怒られたさー。大変さ―。」などと辛い労働体験を述懐した。また、私の中にある内地的な強迫性が患者さんの暴力を誘発してしまった(患者さんの「内地トラウマ」を想起させた)と思われるケースもあった。こちら内地は、列車の運行の正確さ・フランチャイズ店員などのマニュアル遵守・トイレの清潔さ、などについて今でも世界で断トツにトップであろうが、こうした強迫的な社会は沖縄のような南方的なおおらかさをもった人々には特になじみにくいもののようである。
ひるがえって今日、こちら内地は、うつ病多発状況にある。あの頃の石垣島とは対照的だ。しかし、逆説的なことに、最近の私の診察室では、あの頃の石垣島の患者さんの「内地の辛さ」話以上に、この強迫社会での息苦しさが語られることが多くなった・・・短時間のアルバイト勤務するだけでも膨大な業務マニュアルを覚えないといけない、子どもの客にも敬語で接しないと上司から叱られる、工場の作業が納期・納期の連続で息つく間もない、ほんの些細なことで客から激しいクレームを受ける、クレーム対応について親会社はただマニュアルに従えと言うだけで放置される、業務上の運転で交通事故を起こすと厳罰なので運転するのに過剰な緊張して前に進めなくなる、「うつ病になったのなら認知行動療法を受けなさい」と会社から言われました、などなど。全てのケースがそうではないが、「強迫社会の公害病」を診療している感覚にとらわれることは多い。薬の処方箋だけ書いて解決する問題ではないことが多い。そんな診療を続けているとついつい、大上段から「社会への処方箋」を書きたくなるが、それは私の力量を超える。まず私は個別の患者さんにそれぞれの対応を考え、自分の位置から見える範囲の話(ミクロストリア)をするべきと思う。