中国の高速鉄道の事故につき日本のマスメディアは連日大々的に報じているが、福島の原発事故が収束を見ていないこの状況下、よその国の一事故をこんなに何度も報じる必要があるのだろうか。こちらの足元の問題、私たちの生活と子どもたちの未来につき、考えることはいくらでもあるのではないだろうか。
私には、この鉄道事故より前に発覚した、警視庁捜査一課の刑事が逮捕された事件の方が、ずっと大きな問題だと思うし、マスメディアにはその構造を追求して欲しいと思う。先の報道によれば、美容整形外科医院での手術に関する業務上過失致死事件の後、なんとそれを捜査する側の警視庁捜査一課の刑事OBの二人が、事件発覚後にその美容外科に就職していたという。しかも、彼らの再就職は、現役の捜査一課の刑事があっせんし、その後に捜査状況を漏洩していたというのだ。その現役刑事は、他の病院にも、OBの再就職を打診していたという。「これからは医療事故も多いだろうからね」などと、まるでヤクザがみかじめ料を要求するようなやり方だったらしい。この刑事たちには、正義を遂行するという警察の根本的倫理が欠けている。構造的・組織的問題がここにある。
この現役刑事は、我々の業界では衝撃的事件であった「慈恵医大青戸病院事件」の捜査を担当していたという。「小泉改革」劇場を国民が見ていたあの頃、マスメディアは、「極悪非道」な3人の医師が、とんでもない無謀な手術を行った、という劇場型の報道をした。あの事故の捜査と報道のあり方は、救急や外科、産科医療を中心に、医師を委縮させ、前線を立ち去るように働いた。私が当時住んでいた地域でも急激に救急や産科医療が縮小した。病院の中堅医師が次々と職場を移ったり開業したりした。私の故郷の田舎町では車で一時間以上の広大な地域の中で産婦人科医がゼロとなった。いわゆる医療崩壊である。
慈恵医大青戸病院事件(「事件」ではなく事故なのだが、刑事事件とされた)については、著書『医療崩壊』の中で小松秀樹医師が詳しく論じている。それを読めば事実はマスメディアが報じたものとは大きく違っていることがわかる。また、この本の中で小松医師は、医療事故に安易に警察権力が入ることの危険性と非生産性を論理的に適切に書いている。諸外国と同じように、鉄道や航空事故と同じく医療事故においても、まずは公的で中立的な事故調査委員会が調査することを求めている。そういう制度が医療者だけでなく、患者、国民皆の利益になるのだ。この点には私も全く賛成する。今回の刑事の汚職事件で、構造的問題は更に明らかになったと思う。
しかし、小松氏のような大人の良識で組織改革していくことに、この国はおそらく難渋するだろう。それは、警察組織がその権限を手放そうとしないという組織的な問題もあるが、一般日本国民の国民性による感情的な反発があると思う。
この国では、マスメディアや警察がしばしば作為的に誰か悪人を作り、その人を「血祭りに上げる」のが大好きだ。松本サリン事件では、奥さんがサリン中毒で重体になった河野さんを犯人に仕立て上げようとしたし(小さな庭でサリンが作れるはずもないことは、大学の化学の先生に尋ねればすぐわかったことだが調べもせず、河野さんを「危ない化学オタク」のように報じた)、鳥インフルエンザの事件では、被害者でもある田舎の養鶏家のおじさんを執拗に責めたてて自殺に追い込んだ。私は、このあたりが、日本社会の一番醜い部分だと思う。幼稚なマスメディアと一緒に善人の立場に立って、「悪人」を追い詰めて、相手を自殺まで追い込んで満足する陰湿なイジメ心性が、我々の心の中にないだろうか。一般に高収入とされる医師やパイロットが事故を起こした時、彼らがヤクザや殺人犯と同じように捜査一課の刑事にとっちめられて苦しむ姿を見て、妙な溜飲を下げて喜ぶ人は結構多いのではないだろうか。(私自身も例外ではなく、そういう醜い部分があると自覚する。だからこそいっそう、嫌悪感を抱くのかもしれない。)
我々日本人は、事実の究明と事故の再発防止、事故の少ない安定した社会システムの育成、といった建設的活動を進めていくよりも、集団で一人をイジメる、日本流の残酷な処罰(リンチ)が行われる劇を見る快楽を求めていると思えることがある。フロイトは、人間の根源に生への衝動(エロス)と死への衝動(タナトス)の共存を見た。守ることと壊すこと、生むことと殺すこと、育てることと貶めること、いろいろな両極の面が、ヤヌス神と同じように我々の中にもある。
今は、未曾有の国難の時代と言われる。不安の時代にあっては、かえって陰湿な「血祭り」を求める人が多くなるのかもしれない。大逆事件や関東大震災(今や「大正関東大震災」と言い直されているが)の後の不安な時代、エロ・グロ・ナンセンスが流行し、文壇・論壇は急激に頽廃したという。
「歴史は繰り返す」にならず、歴史から学び、創造的な未来を作っていきたいと思う。