患者さんがかかりつけ医を選ぶに当たり、特に私の関係する心療内科・精神科領域では、医師との「相性」を心配する傾向がある。私がこうして自分の私見を恥知らずにもIT空間上に出しているのも、一つには患者さん側に選ぶ材料を提供する意義があると考えている。
私も、重要な関わりを持つようになる人や職場については、慎重に選んだ。医学部を卒業して、精神科の専門を志すとき、どこの教室(いわゆる医局というもの。「第一内科」などの診療科別の組織である。小説『白い巨塔』に出てくるのでご存知の方も多いだろう。今は研修制度も変わり、あの小説のように権威主義的なところはあまりなくなってきているようだ。私の卒業当時はどこかの大学の医学部の医局に属するのが普通であった。)で勉強するか、よく考えたし、たくさん迷った。人間若い時は、性急なものだ。私は、良い教育者のいる教室で、効率よく学びたいと思った。将来研究者になるにしても、まずは診療がきちんとできるようになっておきたいと思った。母校の名古屋や東海三県の医学部、東京や京都、神戸などあちこちに見学に行き、時には一週間病院の敷地内の寮で寝泊まりして、自分の研修先としてふさわしいところかどうかを考えた。自分の見た所だけでは限界があるので、見学先で知り合った医師や医学生からもいろいろと情報を得た。
現在就活をしている学生も当時の私と似たようなことをしているだろう。ただ、大企業や公務員を選ぶ人は、給与体系や福利厚生や企業の将来性といった、客観的な指標やインターネットで得られるような、いわゆる「情報」を指標としている人が多いと思う。しかし、医師、中でも精神科医というものは、職人である。教科書を見て治療ができるものではない。職人が師匠を選ぶとき、客観的「情報」は一つの参考に過ぎない。最終的には「勘」を頼りにして選んでいくものだ。私の世界で言えば、職人の棟梁に当たる人は大学教授であった。私は、母校を含め、いくつかの大学の教授の論文や著書などをわからないままにも読み、それからその人となりを想像して、その先生の診療を見学したり講義を聞かせてもらった。知識や経験のない人間が上級者の技術を評価することなどできないのだから、その頃によく見ていたのは、先生方の立ち居振る舞い、発声の仕方など、一般的に人を選ぶ時に重要視する、いわゆるノンバーバルなところだった。これは、今でも正しい判断であったと思う。公的なところでは美辞麗句を並べ、オフのところでは真逆な、ここで公言できないようなことを話す先生がいたし、今思い出しても不適当な診療であったと思えることもあった。
最終的に神戸大学病院を選んだ。
神戸に行き、カルチャーショックを受けた。医師が全然権威主義的ではなかった。名古屋や東京の病院では、「お医者様」という感じで、最近で言う、「上から目線」であったが、神戸では、患者の権利がかなり尊重されていた。医局の医師や研究者も東洋系を中心に外国人がたくさんいて、「合衆国」という感じだった。それはまだ驚きの始まりであった。
研修開始早々、私たち研修医には、教授からだけではなく、たくさんの先輩の先生方の講義があった。その中のある先生は、心底から教授を尊敬しているにも関わらず、私たちに話すときに教授を「おっさん」呼ばわりして私たちを驚かせた。教授の教えを研修医が金科玉条にして患者の現状を生のままに見ないことを懸念されていたようだ。別の先輩医師は、哲学や数学嗜好の人間はロクな臨床医になれないと説いた。商売人や弁護士など、交渉や妥協点を見出すことを仕事とする人たちを見習うようにと教えた。一時は数学科に進学を考えていたし哲学や宗教学にも興味を持っていた私はガツンとやられた。また別の先輩は、「精神科医に名医無し」と話された。精神科医は、他科と違って、単に患者(の体)を客体として見るだけにいかず、自分と相手との関係を考え、医師の側が患者に持つ感情(逆転移と言われる)をも見つめていかなければならず、それは心身を疲労させる(特に「難しい」患者に対する時にこのような操作を要する)。「名医」とされ、難しい病理の患者さんが押し寄せてきたら、早晩体が持たなくなるというのだ。
実際の研修では、とにかく患者のそばにいるところから始まった。煙草を吸う患者のそばにいること、患者が歯科医療を受けるのに付き添うこと、患者と一緒に散歩すること、患者の家に往診すること、いろいろだった。精神科医は椅子に座る時間が多いかと思っていたが、そういう時間はむしろ少なかった。それは良かったが、大学病院では、本来看護師のする業務を研修医が代行させられることがあまりにも多く(薬剤を薬局に取りに行く、患者に点滴をする、体温を測る、など)、新入看護師以下の扱いで、さすがに私も一度怒りが爆発しそうになったが、先輩の先生からは、「今しかこういう経験はできない。〇〇先生なんかは、看護師になりすまして1ヶ月病棟で働いていたよ。それで見えてくるものがあるんだ。」などと諭された。
ソーシャルワークも大変重視された。我々研修医が、患者に対し生活保護や障害年金の利用の案内をし、民生委員や生活保護担当職員など地域の人との連携を大事にするように教え込まれた。当時でも、このあたりの業務はソーシャルワーカーに丸投げする医師が多かったはずだが、神戸大学病院ではそうではなかった。
こうした先輩方の教えは、当時の私にはその意義をよく理解できないところもあったが、20年近くたって当時の先輩方の年齢になった今、妥当なものだったと実感できる。臨床医学なのだから、現場での問題点が何かを、わからないままにでも感じて、そこから必要と感じた臨床技術を学んでいく、という視点が大事なのだと思う。見習いの料理人が初めは皿洗いしかさせてもらえないことにも同じ意味があるかもしれない。
昨今は、就職して3年以内に離職する人が7割もいるという。「石の上にも3年」は死語になってきているらしい。私のところに来られる若い人の中にも、「専門の仕事をするはずで入社したのに実際は違ったから辞めた」などを話す人もいる。昨今は会社の状況も変わり、なんでも我慢するのがいいわけではない。しかし、始めから「専門家」を志向するのは一見効率が良くて楽なのだが、変化していく現場での力や応用力が無くなって結局は将来になって困ることも多いと思う。