フランスの人類学者で、エマニュエル・トッドという人がいる。なぜフランスでフランス革命が起きたのか、なぜ中国やロシアで共産主義革命が起きたのか、逆に言えばなぜドイツや日本では共産主義革命が起きなかったのか、なぜアメリカでは自由は最大限尊重されるのに平等は無視されるのか、といった、壮大なテーマを、それぞれの国の家族構成のあり方(遺産の相続のさせ方や結婚後の親との同居、いとこ婚の許容の有無など)から説明する、という大胆な仮説を提起している学者である。
彼は、ドイツについては、隣国のフランスやイタリアなどよりも日本の方がよほど距離が近い、親和性がある、とする。従来よく言われてきた、勤勉だとか真面目だとか第二次対戦で同盟を組んだからとかいう理由とは別である。家族構成・家族形態が非常に似ているというのがその理由だ。
ドイツと日本は、彼の分類で言えば、「権威主義的家族・直系家族」という。これは、親世代が権威を持ち(具体的には、財産を誰に分与するか、などを決める権限を持つ)、家を継いだ子ども(一般には長男)の家族と同居するあり方で、家を継がなかった子どもはそれぞれ独立していくしかない。日本の私たちにはごく当たり前のように思われる家族のあり方であるが、諸外国ではずいぶん違った形であり、直系家族は世界では少数派であることに留意する必要がある。アメリカやイギリスでは、親子だけの核家族(トッドは「絶対的核家族」と呼ぶ。一般に3世代同居家族はない。)が基本であり、家系や血統などにはあまりこだわらない。 また、中国やロシアでは、親と兄弟が大家族で同居する(兄弟が結婚しても親と同居を続ける、親が死んでも兄弟家族の同居がある)、「共同体家族」である。世界には家族形態にはいくつかのパターンがあり、その家族形態がその国の価値観(自由、平等、伝統、などいずれを重んじるか、社会主義・共産主義を受け入れるか、など)を決める、というのだ(詳細は『世界の多様性』を参照ください)。
ドイツ、日本、朝鮮民族、ユダヤ人のような直系家族の民族では、イギリスのような絶対核家族(世代間の同居がない)と違って、「お家」として代々の家系の連続性や伝統を重んじる(私の親類の農家も、源氏の子孫だとする伝説があって、「木曽義仲の着ていた甲冑」が飾られている。本物なら1000年物の国宝である。日本では、庶民でもその祖先は武家や貴族につながるとする人は多い。)。直系家族の民族では家庭教育に熱心で、ヨーロッパでは他国に先行してドイツが、東洋では日本が、早くから(近世時代から)識字率が高く、だからこそ産業革命には遅れても先進国を追い付き追い越すことができた、とトッドは言う。また、直系民族では、お家の跡取りとそうでない子どもとの差別は当たり前であるし、他の民族との混血を嫌い、民族差別はあって当たり前とする、とトッドは言う。その負の側面が、大戦時に日本やドイツで出てしまった。
トッドは、日本では古くからマイノリティの人たちへの差別が問題であった点も見逃してはいないが、戦後の成長期に見られたように、直系家族社会の長所が出てきたことも評価している(自国のフランスの長所短所もきちんと批評している。)。あの頃は、家督を継がない次男以下の人には、勉強や仕事で頑張ることで社会的な評価を得られたし、疑似家族としての企業や組織に属することができた。企業も、目先の利益だけでなく、長期の安定性や国への貢献も大事にしていた(彼はドイツ・日本型の資本主義とアングロ・サクソンの資本主義は別種と分けている。アングロ・サクソン型資本主義をつきつめたのが今の新自由主義だという。)。しかし、この10数年、日本も新自由主義的になり、大企業は多国籍化・自己目的化し、個人も「末代」どころか次世代のことさえも考えない(考える余裕がない)ようになった。皆が場当たり的になれば政治家も同調し、例えば「子ども手当」も作られたばかりで、もうすぐにもなくなりそうな気配である。医療に関しても、つい先日まで医師過剰だとして医学部の定員を削減していたのに、今は増やすという。子育て(教育)や医療などは、最低でも30年程度の見通しが必要だと考えるのだが、そうしたビジョンを語る政治家はいなくなった。
トッドの説は、当初は、「決定論」として非難された。家族形態が政治体制や国民特性を決めるなんて、人間としての自由を損なわれると誤解されたようである(「自由」はそれを阻害する要因を自覚してから初めて手にするものだが。)。はからずしも、日本は変質し、トッドの描くような社会でなくなり根なしになってしまったようだ。その崩壊は10年以上前から生じてきていたと思うが、今回の大震災・原発事故の後に、明らかに見せつけられた。ただ、政治や企業やマスメディアが崩壊していても、個々人の活動にはまだまだたくさんの希望が見出されている。それだけが救いである。