先回のブログ記事の延長上で、戦後日本とドイツの歩みについて、最近いくらかの本を読み、少しだけ考えてみた。
先回触れた、ドイツの人間学的精神医学の精神医学者の中に、ヴァイツゼッカーという人がいる。一般の方は、ドイツのヴァイツゼッカーと聞くと、1980年代の大統領を思い出すかもしれないが、お二人は兄弟で、大統領の方がお兄さんである。
1985年5月8日、当時西ドイツのヴァイツゼッカー大統領は、有名な演説をしている。 「過去に目を閉ざす者は、未来に対しても盲目になります。Wer aber vor der Vergangenheit die Augen verschliesst, wird blind fur die Gegenwart.」という有名な一節のある演説である。この演説は、当時の日本では、左翼系の人たちがよく称賛した。西ドイツは「戦争犯罪」を反省している、しかし日本は「目を閉ざして」反省していないじゃないか、との意味あいで引用された。80年代末に大学に入学した私も、ドイツ語の授業で教材に使われたので印象に残っている。今回、あらためてその演説を読み返した(公式の演説なので、現在はネット上で原文で読めるが、私のドイツ語初級能力では読解できないので、大部分を『荒れ野の40年』永井清彦訳に頼った。)。
ドイツで5月と言えば、暗くて長い冬が終わってやっと太陽が顔を出す、待望の季節だ。アルプスの少女ハイジに出てくる春だ。生命の息吹を感じて、花見気分で浮かれそうになる時期であろうが(ヨーロッパに行ったことはないので想像です。)、そんな時期の、重い主題の演説である。
主題は重いが、格調高く、秘めた力強さや美しさのある文体の演説だ。内容も相当練られており、ホロコーストの被害者であるユダヤ民族にかなり配慮して、旧約聖書やユダヤの格言などを引用するところが多い。戦後40年のこの日に演説をする意味について、「古代イスラエルの民は、約束の地に入って新しい歴史の段階を迎えるまでの40年間、荒れ野の地に留まっていなくてはなりませんでした(出エジプト記)。当時責任ある立場にいた父たちの世代が完全に交代するまでに40年が必要だったのです。(中略)ですから、『40年』というのは常に大きな転機を意味しております。」といった具合だ。戦後40年間を振り返り、「父たちの世代」を思い、古代の歴史を思い、旧約聖書を共有する二つの民族の数奇な運命を思い、と、いろいろ複雑な気持ちや考えを想起(Erinnerung この語は、inner「中に」の意味合いを多分に含み、心の「中に」、過去を「心の中に刻みこむ」意味合いでも使われている。訳書の解説に詳しい。)させる。遠く離れた日本人の、不惑の年を超えた私にも、いろいろなことを連想・喚起させる。このあたりだけでも名演説だと思う。
私の関係する分野については、「第三帝国において精神病患者が殺害されたことを想起するなら、精神を病んでいる市民に温かい目を注ぐことはわれわれ自身の課題であると理解することでありましょう。」とある。ここは全く賛成である。何万人が殺されたとかいう、国家的犯罪の事件の規模だけでなく、どんな人がどのように殺されたかという、事件の質についても、「目を閉ざさず」見ていく視点は共有できる。
しかし、大統領は、古代の歴史まで遡りながらも、「民族」や「国家」の存在については、まったく自明のものとして疑問にしていない。不思議である。2000年以上前の古代ユダヤまで遡るなら、その時代には「ドイツ民族」もドイツ「国家」も存在しなかったことに思いはおよばないのだろうか。そこまで考えるのならば、(ジョン・レノンの『イマジン』ではないが)「民族」「国家」の区別も無い、人間としての「零時」(そこからすべてが始まる、の意。原文でもわざわざ強調されているキーワードなのだが)まで遡れなかったのか。
さらに、大統領は「私たちはは皆、罪があろうとなかろうと、年配であろうと若かろうと、過去を受け入れなければなりません。私たちは皆、過去の結果に関わっており、その責任を負わされています。」と語る一方で、「罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なものです。」「災いへの道を推進したのはヒトラーで、大衆の狂気を生み出し、これを利用しました。」とし、「当時責任ある立場にいた父たちの世代」で戦争犯罪者として処罰されなかった人たちや現在の自分たちには罪はない、でもヒトラーという大悪人が犯した罪を自分たちは覚えておくことが大事だ、という主張に終わる。ここには、「組織悪」という考えはない。ヒトラーにエールを送っていた多くの善意の人々には微塵の罪もないというのだ。「お父さんはいい人」「悪いのはあの人たちだけ」といった幼児的思考のようだ。我々の中に、ヒトラー的志向(自分の権力を強めたい、自分の考えを周囲に認めさせたい、自分が正しいと思うことに人を従わせたい、などの権力志向や支配欲)は無いものとされる。彼は「過去」には「目を閉ざす」ことはせずとも、自分の中にある権力志向や支配欲には「目を閉ざして」いる。「善意の人々がなす大悪」という考えはない。私は、このような人は信頼できない。人間は本来「わがまま」なもので、自分の中の「わがまま」性を認めない生き方はいびつになる。
あの演説を称賛した人(今は引用もされないかな。)は、右や左だとかいう思想の好みの前に、人間の歴史や人間の心の奥深さ、集団や組織の怖さ、などにつき、ちょっと思慮が足りないのではないかと思われる。
あの演説の後、東西ドイツは統一された。大統領の願いはかなった。
その後、「湾岸戦争」や「テロとの戦争」という、私はその道理がいまだに全く理解できない戦争が続いた(そもそもあれらが「戦争」なのかさえわからない)。イラクに「大量破壊兵器」があると確信してフセインを脅し、フセインが全面的な査察を受け入れると降参状態になっても戦争を仕掛けたり、テロの首謀者とされるビン・ラディンが丸腰になっているのを生け捕りせず射殺する、といった行為を、確かにマスメディアは世界に報道し、「目を閉ざす」ことはなかった(TV中継された初の戦争、などと嬉々として報道した)。しかし、それで私たちは「未来に対して盲目」になることを免れたのだろうか。