哲学、中でもニーチェブームだそうである。「新訳」「超訳」などの訳書が出たり雑誌の特集が出たりしているが、昨今の「癒し」ブームの延長だろうか。そういうものの表紙は見ても中身は見ていないので真相は知らない。
私の中のニーチェブームは大学生時代だった。いろいろ衝撃を受けたが、その後の生活・人生の中で、自分なりに咀嚼してきた哲学(というか倫理学)である。先日、NHKの番組で、『100分でわかる名著』シリーズとして、ニーチェ特集をやっていた。哲学に詳しい人ならおそらく、他愛もないだろうと最初から見もしないかもしれないが、私は普段からニーチェの言うルサンチマンの問題と、現代の急増する抑うつ症状についての関係を考えていたし、また、この番組に精神科医も出てくると聞いて、興味を持って見てみた。
「ニーチェは孤独病なんです(対話が足りなかった)」と、対話の重要性を哲学者は話していたが、これは哲学的にはかなり的外れな批評でないかと思った。哲学は、言語を含め、人間の考えられるところの極限まで考えていく学問である。その論の正誤について、それがどんな立場から出てこようが、どちらでもいいことである。犯罪者が論じようが、厚顔無恥な強欲者が論じようが、哲学としての論理の正誤で考えれば良いのである。囲碁や将棋の勝負や数学の証明については、強いか強くないか、正しいか正しくないか、が大事であって、人柄の良さや社交性などはまた別の問題である。哲学の論理を考えるのに、論者の個性に言及することはおかしいと思う(「個性」なんて所詮は形而下に属するものであり、形而上の、個性を離れた主題を研究する哲学には問題にならない。)。ニーチェの思考の凄味というのは、彼が孤独かどうかとか、精神病であったかどうかとか、ワーグナーと交流があったとかいう個人的な事情から来るものはではない。彼は、自分の主張の依って立つ基盤は何か、自分は自分に都合の良い土俵を作って勝負しようとする卑怯者になっていないか(キリスト教の神を否定した自分が新たな神を作っていないか)、と自分の理論根拠を徹底検証する、知的誠実性にあると思う(このあたりは、永井均『これがニーチェだ』に詳しい)。そのうえで彼は「神は死んだ」と言ったのだ。「我執」を放棄した、底が抜けた思考である。それはまさに、「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」「ブッダにあったらブッダを殺せ」の世界である。「神」、「真理」、「道」、どう言っても良いが、何よりもとにかく正しいことを知りたいという、一つの根源的欲望に取りつかれた人が行う所業だと思う。その種の人はいつの時代にも一定割合でいるのだ。
先の哲学者のように、なんでもかんでも「対話の重要性」を説くのは、一見わかりやすい、政治でいうポピュリズムに当たる、哲学という学問についてのポピュリズムである(NHKの演出も多分にあっただろう)。かつての啓蒙思想は、何でもすぐ対話、すぐ教育とせずに、「知りたいのなら、まずここまで基礎を勉強しろ」という姿勢があったと思う(今なら「上から目線」と非難されるだろう)。啓蒙思想と百科事典編集が同時期に起きたのは、そういう意味でなかったか。百科事典が示す、同時代の知識人に求められる標準的な教養を習得して初めて啓蒙的な教育ができるとの考えではなかったか。その頃は、教師側の教える努力よりも、教わる側の努力が要求された。(もっと時代を遡れば達磨大師なんて、自分で腕を切り落としてやっと教えを受けられた。それほどまでに「教え」のハードルは高かったのだ。)
昨今は、消費者大切で、物やサービスの提供者には説明責任・品質保証責任が問われる。何かと「説明責任」であり、「説明」の責務はもっぱら供給者側に要求される。教育や医療といった公的事業も一般のサービスと同じく消費モデルで捉えられていることの弊害は、内田樹氏や岩田健太郎氏(『「患者様」が医療を壊す』)に限らず諸家の指摘するところである。
閑話休題。先の番組では、ルサンチマン・ニヒリズムの克服につき、ツァラトゥストラの話した「幼子」が出てきた。「純粋無垢」な赤子のイメージを提示するに終わった。これは誤解だと思う。ニーチェの言う「幼子」は確かに「純粋」ではあるが、それは、日本の赤ちゃんのようなイメージではなく、「純粋」だけど平気で反社会的・残酷なことをしでかしかねない、「怖ろしい子どもたち」(enfant terrible、コクトーの小説題名になり、映画化もされている)のような子どもも含意されていると思う。海辺で貝殻拾いに夢中になる子供も含まれれば、無邪気に大量殺人してしまうような幼児だって含まれる概念である。西洋人は「子ども」を我々のように「無垢」とだけは見ていない。「幼子」のように生きることが、一般に言う「癒し」にはならないこともある。
番組に出てきた精神科医は、「ツァラトゥストラは(現代の)引きこもり(の人々)なのです。」など話していたが、結局どのようにニーチェ哲学が引きこもりの治療論に生かせるのかというのはあいまいな返答に終わった。時間の制約など限界があり、仕方がないことだと思う。ただ、私見では、哲学は一般精神科治療には生かせないと思う。上述のような底なしの思考に入り込んでいくとき、心身の不調があれば、余計に悪化してしまう。サルトルだって哲学的思考を進めるうちに「嘔吐」する世界を表現した。哲学は嘔吐したくなるような毒にもなり得る。そのような思索を進めるのは、デカルトやヘーゲルのような体力が要るものだと思う(エネルギーあふれる彼らの顔の「濃い」こと!)。 ただ、私の臨床の中で、どうしても「知りたい」欲求が根源的にある患者さんには、「心身の調子が良ければ、少しづつ哲学書を読んだり思索をしていくことはいい。それで調子を崩さないのなら心身が健康に回復してきている一つの指標でしょう。」などと助言する。形而下の身体を大事にしながら形而上のことを考えていきましょう、ということである。それは、私も自戒している。