本来は五月晴れの時期だが、雨や曇り続きの天気である。患者さんを見ていてもわかる。漢方医学で言う、水毒(体の水分の循環が悪く、水分が体に貯留しやすい状態、めまいや嘔気、むくみなどの症状を生じる)のある体質の患者さんは、例年なら6月の梅雨に入ってから体調を崩す傾向があるが、今年は連休明けの雨で不調となった。天気図に前線もあるし、既に連休明けにこの地方も梅雨入りしたと言って良いのではないだろうか。
気象庁は、今年みたいに早く梅雨入りしていてもなかなかそうとは宣言しないし、逆にいつまでも梅雨前線が残る真夏に梅雨明けしたと言う。「東海地方の梅雨は6月に始まる」、「美しい日本の四季」はこういう変化をする、といった理念型にこだわり過ぎているようだ。雨季と乾季の二季化している日本の気候を認めたがらないようにも見える。
日々の天気予報ではなく、気候変動についての判断は、政治や権力の話につながりかねないことがある。日本の天皇に限らず、古代の王は、暦を司り、季節の区切りを宣言してきた。今は気象庁が天皇の仕事を代行しているとも言える。四季ではなく「二季」になりました、では、「伝統否定」になりかねない、もしくはむやみに国民の不安を煽ることになる、と気象庁が心配していると言ったら考え過ぎであろうか。
「地球温暖化」についての話も、人為的に発生した二酸化炭素の増加が原因だとする説、 単に太陽の活動の強さの変化によるものであって人間の作る二酸化炭素は関係ないとする学説が対立している。某大国の元政治家が前者の立場をとっているが、自然エネルギー産業との関係があると疑問視されているとも聞く。日本の原発問題のように、本来科学的に議論すべきところに利害・金銭など政治問題が入ってくるのは、国際的な「温暖化問題」でも一緒なのか。
精神医学の分野では、二大精神病として、躁鬱病と統合失調症があげられてきた。それらは別の病気とする説と、連続性・近縁性があるとの説だ。前者の説は「理念型」にすぎないと今までにも言われてきたが、近年の遺伝子研究や疫学的研究で、後者の説がますます有力になってきているようだ(この論争に関しては原発や地球温暖化の問題と違って、企業利益などとは無関係に純粋に議論されていると思う)。私の日々の臨床でも、迷うケースはあり、両疾患の折衷病態と考えることも多い。ただ、季節の変化や気候の違いにおいても、単に温度だけが変化しているわけではなく、湿度や日照、風など、いろいろなパラメーターの違いがある。躁鬱病と統合失調症の違いでも、虹のスペクトラムの変化のように、一つの軸の中の濃淡と考えてしまうと、いろいろなパラメーターの違いを見失ってしまう恐れがある。どういうパラメーター、もしくはどういう「質」が違っているのか、わからなくなるのだ。「折衷」とは、「中庸」のように、「バランスをとる」感じで聞こえがよいが、思考があいまいなものになってしまう危険がある。やはり、「理念」は参照枠として必要なものである。それがなければ盲目となってしまう。しかし、実世界の現象は複雑であり、理念通りにいかないことも同時に認識しておく必要がある。