東日本大震災以降、テレビや新聞のみならず、いろいろなマスメディアは、にわかに全体主義に舵切りしたかのようである。いわく、「がんばろうニッポン」、「一つになろう日本」、「日本人は今までの価値観の転換を図るべき時がきた」、「大震災を受けて思想・文学はいかに変わるか」、「この未曾有の悲劇を受けた後に読んでおくべき本」、などなど。勇まく、団結を喚起するスローガンが多い。原発事故を受けて節電を要請するメッセージも増えた。こうしたメッセージを見聞きして、太平洋戦争の時のスローガン、例えば「欲しがりません、勝つまでは」や、「非国民」への非難、 国家総動員法によるガソリン規制や金属物資の徴発、などの悪夢を思い出してしまうのは、それこそ非国民的であろうか。もちろん戦時とはいろいろ違う点があるが、メディアについて言えば、今は言論の自由があるので、思想的に右の人も左の人も大騒ぎできる(いくら声高にしようが特高警察に逮捕されないし論壇で刺されもしない)点だ。
私は、おおよそ党派的なものは好まない。右でも左でも、党派的な人は、自分の好みを他人に強制する。それは、結局真実を追究することを妨げる。「本当のことを知りたい」人間はあまり党派的にならない。自分の友達や師匠が言っているから真実、皆が言っている意見だから正しい、とは考えない。最近、インターネットブーム(いかにもおじさん的表現かな)で、「集合知」という言葉を強調する人がいる。専門家やその道の権威が語ることよりも、多数意見・人気投票の結果の方が正しいことがかなりある、多数意見は真理への近道、という考え方である。そこには、 たとえ一人だけが考えても真理に到達することがあるし、皆でそろって間違えることもある、という、小学生でもわかる当然の理屈は無視されがちである。集合知の考え方は、党派志向の人にはなじみやすい。しかし、党派的であることの弊害はかなりあるのではないか。原発の是非についても、今までは右か左かの政治的な闘争になってしまって、冷静に科学的に議論・判断してこなかったツケが現状ではないか。
精神科・心療内科の領域は、本当に個別性の部分が大きい。同じ病名、例えばうつ病と診断されている人の苦悩は、十人十色である。医学的に重症度を分ける目安はあるが、重症度と苦悩は一致しないこともしばしばである。治療方針・治療目標も様々になる。「幸福な家庭は一様だが、不幸な家庭は一つ一つそれぞれ異なっている。」と言ったのはドストエフスキーだったか。私は、仕事柄でも、どうしても個別的に考えざるを得ないことが多い。
「国難」と言われる今回の災害を受けての全体主義傾向は、はからずとも個々人の災厄を圧倒・圧迫しかねない危険性をはらむ。実際戦争中にはいくらでもあったことだろう(戦中の南海大地震の大被害は報道されなかった)。今回の大震災の後も、「私はこんなことで悩んでいていいのでしょうか。あんな大災害で苦しんでいる人たちがいるのに…。」などと悲しみや苦しみを素直に表現できないで苦しむ人が何人かいた。結構なトラウマを抱えた人でそのように話した人もいる。感情の発露を抑圧する(自然な感情を無かったものにする)のは反治療的だ。私は、個々の患者さんに「悩んでいてもいい。あなたの苦しみと被災者のそれとの比較はできない。」「(震災での)何万人もの不幸と言っても、あなたのような、ひとりひとりの不幸が何万件かあるのだから。」「被災以外にもいろいろな苦悩がある」などと話すことが多かった。
考えてみれば当然だが、大震災で被災するのと、幼児が親から虐待を受けること、末期癌にかかること、交通事故に遭うこと、陰湿な嫁いびりをされること、などの個々人の災厄は、どれが一番悲惨なのかなんて、わからない。あくまで個人的状況や文脈によることである。
TVを見て苦しむ人がいる一方で、中には、「今回の大震災を受けて自分はつまらないことにこだわっていたとわかった」などと話して吹っ切れたようになった人たちもいた。それも、特に無理をした感じも無く、素直な話し方であった。そういう人たちの中には、自然の厳しさや命の有限性を実感することで、今現在を大切にしたい気持ちが強まった人もいた。それこそ、良い意味で「我執」を離れたとも言える感じであった。
電力使用をどうするか、被災地のインフラ再建をどうするか、などの国家的問題は、個々の災厄を超えたところでの議論が必要である。その面では、ある程度全体主義的な考え方は必要である。しかし、何かと高所から「時代」などとひとくくりにしたがる、マスメディアの報道で現代の個々人は救われるのだろうか? 彼らがしばしば良き時代と回顧する「バブル時代」に貧困家庭に暮らし、特に「豊かな社会」を実感することなく、、「バブル崩壊」も「ベルリンの壁崩壊」と同じく異国のことのようにしか思えなかった(実際身近には何の変化も無かった)私は、マスメディアに期待するところはますます小さくなっている。