先回の記事に書いた取材の中で、某知事の発言はその動機が不純であり発言時期としても不適切だと話したが、しかし一方で、「我執」だけで生きるような人(ニーチェ的に言えば「末人」というべき生き方の人)もつまらないことは事実なので、我々の生きがいや生活を考えるに当たって傾聴すべき部分もあると話した。それに対し取材者は、「私はヴィクトール・フランクル大好き、どんな時も前向きになるという姿勢がいい、『夜と霧』、とてもいい本ですね。」などと応えた。フランクル的メッセージを記事にしたいとも話されたが、まだ被災者のほとんどが避難所にいて十分な食事どころか暖もとれない状況にあって、「どんな時も人間性を失うな、頑張れ」というメッセージを、当地のような安全な場所から発するのはとても私にできない(それでは某知事と同じだ)と断った。 私もその昔、『夜と霧』には感銘を受けたが、自分はそれほど強い人間ではないし、「衣食住足りて」から初めて他者への愛が持てる、弱い人間だと自覚している。また、「頑張ろう」というメッセージが、被災者やうつ病の人たちにいかに侵襲的になるかをわかっているつもりである(阪神大震災の時は地元神戸の中から出てきた、「ぼちぼち行こか(=あせらずマイペースで回復していけばいい)」が復興スローガンになった。)。
『夜と霧』については御存じの人も多いと思う。ナチスのユダヤ人虐殺、ホロコーストの中にあって、人間性を失わなかった人々について、精神科医がなした記録である。日頃患者さんの小さな悲劇や回復に対し思わず涙腺がゆるんでしまうことがある私には刺激が強すぎる本である。同じくホロコーストを描いた映画、『シンドラーのリスト』についても私は、2回ほど鑑賞を試みたが、モノクロ画像がかえって生々しさを強調するのか、とても見続けるに堪えず、いずれの機会も3,40分で中断せざるを得なくなった。
もう一つ、先ほどの取材者の彼女の話。子どもがもうすぐ医者になろうとしているが、「絶対に安全な場所からでないと人助けしてはいけないと教えています。溺れる人を助けるにはまず自分が安全な場所にいることが大事、飛び込んじゃダメと言っています。」という。しかし、およそ臨床医であれば、何科を専攻しようが職務に関する危険はある。精神科を専攻した私も、院内集団感染症に感染して自分が入院したこともあるし、錯乱・興奮患者から暴力を受けたことも何度もある。臨床医をやっていれば、今回の原発事故状況と似たような、危険だけどやらねばならない「限界状況」に遭遇することは十分ありうる。でも、そんな説教を彼女にする気はしなかった。私だって限界状況は無いなら無いに越したことはないと思うし、彼女の話を善意に解釈すれば、彼女の子どもは他者の痛みがわかりすぎるので自己犠牲してでも他者の救済を優先するような、キリスト的善意の持ち主であって、だからこそ彼女が警告しているのかもしれないのだから。実際私は、そうした尊敬すべき医療者を今までに何人か見てきたので、皮肉ではなくて、そう思う。