東日本大震災後、患者さんたちにテレビ報道の害を話すことが連日のように続いていたが、ちょうど震災の2週間後に、あるメディアの取材を受けた。阪神大震災の経験者として、精神科医として、今回の大震災を受けて、「我々はどう生きていけばいいのか」(最近のいわゆるオピニオン雑誌によくある見出しである)という問いかけをもらった。
私は取材者の彼女に、大震災を受けての「我々はどう生きていけばいいのか」との「我々」は誰を指すのか、尋ねてみた。被災者なのか、安全地帯にいる我々なのか、など。彼女の答えははっきししなかった。それでいて200字程度で何かメッセージを、という無茶な要望であった。全体に陰鬱な雰囲気でありデマ的な情報にも踊らされている人が多い中、安易もしくは空虚な励まし的メッセージは慎みたいし、「津波が我執を洗い流した」と言う某知事のような、一見皆のことを考えているようで単に自分の理想とする全体主義(若い頃に我執を賛美したのは誰だったか?)を語るような話も避けたい、などと話した。
そのうえで、私は先日のブログに書いたように、最近の自分の診療状況を話した。それに絡んで、映像の害、ACのCMの害、スポンサー企業とテレビ局との関係について疑問、について話したが、取材者は「私たちはスポンサーのことについて触れることは一切書けないんです」と、にべもなくあしらってきた。活字メディアなのだから少しは映像の害くらい伝えても良さそうなものだが。
マスメディアはしばしば、誰に宛ててでもない虚空にメッセージを発する。一つの例は新聞の人生相談だ。相談者に答えるようでいて、それ以外の大衆読者のウケを狙うか、ただ返答者の持論を展開するだけ。もう一つ例を上げれば、社説にありがちな、「・・・すべき」メッセージ。「(原発で働く)作業員の絶対の安全性を至急確保し、すみやかにこの事故を収拾させよ。」といった、現実から遊離した理想論(「論」の体もなしていないか)である。後者のような言説には、医療界も随分やられてきた。「あってはならない医療事故」という表現でどれだけ医師が糾弾されて患者の医療不信が起きたか(過失とも決められない「医療事故」で凶悪犯相手の捜査一課に拘束されて取り調べを月単位で受けた医師がいると聞いて救急医体制をどうするか、病院医局で紛糾した頃を思い出す)。今回の原発事故でも、かつてあったように「犯人」探しだけにならないように祈りたいが、どうなるだろうか。