最近、政治家や芸能人の「スキャンダル」のニュースが
相次いでいる。
その「スキャンダル」の内容を見てみると、
昔ならばスキャンダルにもならず大目に見てもらったようなことが、
社会的な大問題のように扱われ、
本来公衆の面前で謝るべきことでもないことなのに
テレビの前で公開謝罪させられたりしている。
(かつてのNHKの酒癖の悪い看板アナウンサーが
繰り返しタクシー運転手に暴行しても仕事を続けられた時代と
比較すると、隔世の感がある。)
今日のネット社会が私たちの精神衛生に与えている影響を考えると、
思うところがたくさんある。
(それを書き始めたらきりがなくなりそうだ。
あらためて書きたいと思う。)
私個人としては、自分の思春期青年期にネットが無くて良かった、
とつくづく思う。
あの頃、今で言う「情報」は今よりもずっと少ない時代だったが、
時間さえあれば自分の頭で豊かにものを考えることができたし、
先のNHKのアナウンサーのように、
我々学生に対しては、少々のことは
「若気の至り」として見逃されていた。
しかし今では、何でもネット上に記録され、
時にはそれが「拡散」される時代であり、
一度ネットに出回った情報は半永久的に消されることが無く、
特に若い人には、息苦しい社会だと実感されていると思う。
いかにも健康そうであった若年者が唐突に自殺した、
というニュースを聞くと、
彼らはこの時代の閉塞感を敏感に察知していたのでは、と思え、
そのような若者が自殺するような社会は間違った方向に向かっている、
と思う。
ネットで「炎上」という事態があるらしい。
私はそんなお祭り(「血祭り」?)に参加したことがないので
実情はよく知らないが、
仄聞するところによると、この国の恥部がよく表れている、
イジメの一種のような騒ぎが多いようだ。
どこかの国立大学の先生は、
「炎上」を起こす群衆がどういう社会的背景を持つのか
(男女どちらが多いか、年収の多寡によるのか、など)
と統計を取って研究したという。
数値でものを言うのが一番説得力を持つ、今らしい研究だな、
と思う。
それはそれで少しは意味があろうが、
物事の本質を得るには直観や洞察が必要であろう。
私なりにこの時代のネットでの「炎上」の背景につき、
私のフィールドから考えてみた。
<メルマガより>
人前での赤面や手の震え、スピーチなどを恐れる
社交不安障害(SAD)と聞くと、
一般の人は「シャイ」「内気」「おくゆかしい」「含羞」
といったイメージを抱くかもしれません。
そのイメージは、一面で当たっています。
SADの診断に当てはまる人は、総じておとなしく、
そのような一般のイメージに合致する人たちも多いのですが、
私たちが臨床現場で診るSADの人は
必ずしもそういう人ばかりではありません。
中には反対に「傲慢」「尊大」との印象を受ける人までいます。
精神科の症状・診断と性格は必ずしも一致しないのです。
ここであらためてもう一度、先回紹介した森田正馬による、
SAD(当時は「対人恐怖症」の呼称)についての
病理論・治療実践を検討してみたいと思います。
実は、森田正馬自身が若い頃に対人恐怖・SAD症状に
悩まされていたそうです。
彼には、高知の田舎から東京に出てきて、
一旗上げようという意気込みや野心を持ち、
都会者には負けない、という強い自負心があったようで、
彼自身が人前で緊張する自分を「ふがいない」と考え、
「負け惜しみの意地っ張り根性」の持ち主であったらしいのです。
対人恐怖症についての彼の病理論や治療論は、
彼自身の実体験に基づくものでもあったと言えます。
彼の治療、今では「森田療法」と呼ばれる実践の意義を
考えてみたいと思います。
今でも一部で行われている森田療法には、
入院治療と外来治療がありますが、
入院治療においては、当初1週間もの長い間、
治療者以外の誰とも対話・交流もせず、本も読まず、
個室で静かに過ごし、ひたすら自己との対話をします。
その間に、患者はいろいろなことを考えるでしょうが、
最終的には自分自身のあり方を見つめ直すことになります。
今まで自分が人前で赤面するという自分の現状を受け入れずに
赤面という症状を異物視してきたことや、
症状があることに「負け惜しみ」ながら「意地」を張ってきた自分に
気づいていきます。
そして、赤面なら赤面、どもりならどもりを
「症状」と見なさず、「あるがまま」の自分の一部として受け入れる、
という境地に至ります。
そこまで来れば、後は実践あるのみで、
例えば人前でのスピーチなど、苦手とする場面でも
「どうせ赤面するなら思い切り、誰よりも真っ赤になってやろう」
くらいの意気込みで臨めば、かえって症状は軽くなり、
次第に無くなっていくのです。
(病者が症状を異物視せず、自己の一部として受け入れたならば、
彼らが元々「意地っ張り」に使ってきたエネルギーを
「誰よりも赤面してやる」ためのエネルギーに使えるわけです。)
森田療法の後半の、赤面する場面に勇気を持って臨んでいくのは
現代の認知行動療法、なかでも暴露療法と言われるものと同じですが、
「あるがまま」の自分を認め、受け入れる、というところは
森田療法の強調するところであり、注目すべきところです。
森田は気づいていたと思います。
人間、意地を張りすぎればきりがない、
「あるべき私」を求めれば満足には至らない、
私たちの自意識・プライド・自尊感情・自我というもの、
総じて「私」と感じるものは、
いくらでも増大していくものである、
そしてそのような「私」が増大していくとかえって生きづらくなる、
そのように森田は考えていた、と私は思います。
だから森田は「あるがまま」の自己像を見つめて受け入れることを
重要視し、患者に実践させたのだと思います。
ひるがえって、この21世紀のSADの患者さんの状況は
どうでしょうか?
現代のSADの人の中には、先に触れましたように、
隠れた自尊心、中には傲慢なレベルのものを持っていることがあり、
何かと他人の批判、悪口を言い続けている人がいます。
ネット上で他人の批判や悪口を言い続ける彼らは、
現実世界では引きこもって、他者に極力関わらずに済む、
誰にも批判されることもないような仕事や生活をしていたりします。
(大手企業や公務員でも、部署名は問われこそ、
個人名を問題にされないような仕事をしている人も含まれます。)
彼らは、政治家や有名人など、一般に「勝ち組」と見なされ、
実名を出して体を張って仕事をしている人たちを
ネット上で、もちろん匿名で批評・批判・誹謗中傷します。
そうすると、自分が他人の生殺与奪の権利を得た気になれます。
自分が偉くなった気がします。
彼らは現実には自分が実践できないことを他人に要求するのです。
彼らは、成功者・「勝ち組」を羨み、
自分は匿名で隠れて安全な所に身を置きながら他人を攻撃する、
そんな、人を背後から切りつけておいて
自分の武力を自慢するような卑怯な行為を彼らは止められないのです。
元々は「負け惜しみ」の愚痴程度であったものがエスカレートし、
他人を社会的に抹殺するような攻撃をすることさえも
平気でするようになります。
しかし、そういうことを繰り返す彼らには、
他人もまた皆自分と同じように批判的な人ばかりに思えてきます。
実際、ネットで他人の批判や中傷をしていると、
いつの間にか自分が批判のターゲットになっていたりします。
自分もいつどこから批判されるかわからないから、
他人が怖くなります。
それにより彼らは対人恐怖を強めます。
最近、そのように、ネット上の他者、リアルには知らない他人への
恐怖を訴える患者さんが増えてきました。
若くて、リアルな社会経験の少ない人に多い傾向です。
もちろん、インターネットの無かった時代から、
他人に対し過剰に批判的なSADの患者さんはいました。
その時代から、他人に批判的なSADの彼らには、
他人のあら探しをせずに、相手の言い分を聞き、
相手の長所があればそれを認めて時には賞賛する、
という行為を実行してもらうと治療的になるとわかっていました。
少なくとも、
「簡単には人の悪口は言わない」
と意識して習慣づけするだけでも
対人恐怖の症状は良くなっていました。
しかし、この時代、ネットで他人を誹謗中傷する人は増え続け、
世の中への不満や、他人への嫉妬、憎悪のはけ口としての
ネット上の闇空間は広がり続けています。
先にお話しした通り、他人を貶めることは
ゆがんだ形ですが自分の自尊心をかりそめにも高めた気になるので、
やめられなくなってしまいます。
このような現代にあっては、自分のあり方を内省し、
森田療法のように沈思黙考することは好まれません。
実際、現代の森田療法の専門家に聞くところによると、
年々、森田療法になじまずに治療から脱落する人が増えている、
とのことです。
それは時代の風潮であり、この流れは変わらない気もします。
しかし、何か大事なものを見落としている、と思います。
ニーチェは、
「われわれの大都市に特に欠けているものの何であるかを
見抜く洞察が、早晩、それも多分近い将来に、必要となるだろう。
それは、思索のための静かな、ひろびろとした、うちひらけた場処、
天気が悪いとか陽差しがきつすぎる際に利用できる天井高くて
長い歩廊のある場処、そこには車馬や呼売人たちの騒音がすこしも
聞こえてこず、僧侶ですら声高の祈祷を遠慮するほどの粛然たる
気配が立ちこめる場処、である。
要するに、
全体として自己沈思と塵世遠離の崇高さを表現している建物と環境、
である。」(『悦ばしき知識』、信太正三訳)
と書き残しましたが、この現代こそ、
あらためて森田やニーチェの言葉に耳を傾けたい、
と考えるのは私だけでしょうか。