わが国で労働者の精神衛生の重要性が説かれ始めてから、
ずいぶん経ったと思う。
今や、産業医と精神科主治医の連携についてのシンポジウムが
各地で開かれたり、
「ストレスチェック」制度が法的に義務化されるなど、
産業精神医学の分野は発展してきているように見える。
しかし、臨床現場にいる者としては、
そうした表向きの体制整備とは逆行する事態が、
一部で進行しているように思う。
たとえば、最近の私の診察室において、こんな事例がある。
仕事のストレスから生じた抑うつ状態(適応障害)として
治療している患者さんに対して、会社の産業医が
「(水谷の処方している)抗うつ薬が少なすぎる、2倍飲みなさい」
と指示した。
また別の患者さんには、
産業医が「(水谷が処方の)薬が間違っている」と断定して
いきなり多量の三環系抗うつ薬を追加投与した。
これらの行為は医師として初歩的な誤りである。
精神科の臨床においては、一度の面接で全ての病理がわかり、
魔法の処方ができるわけではない。
当然ながら、いずれの患者さんも副作用や病状悪化が生じ、
事後のフォローが大変であった。
また別のある労働者は、会社の医務室で産業医に対して
仕事の苦労、上司からのパワハラに対して困っている、と話し、
思わず産業医の前で涙を浮かべたら、
休職を指示されたのと同時にその場で抗不安薬を服用させられ、
帰りの運転で居眠り運転してあやうく交通事故を起こしそうになった。
(休職することが決まり気持ちが楽になったと自覚した患者に対して
急いで抗不安薬を投与する理由が全く不明であった。)
なぜ、産業医はそのような初歩的な誤りを犯すのであろうか?
一つには、産業医の多くが精神科医ではなく内科医などであることが
挙げられる。
(臨床能力の低い)内科医は治療マニュアル、治療ガイドラインが
大好きである。
彼らは、高血圧の診療のように、
「標準的治療」とされたガイドラインに則った形で治療するのを
最善とする。
うつ病についても、
各種バージョンがあれども一応ガイドラインが存在するから、
それに沿った治療でなければ即座に「間違っている」と
彼らは断定するのだ。
(どの診療科であっても下手な医者は皆、
ガイドライン・治療マニュアルを最善の治療として、
機械的にそれを臨床応用する。)
その点と基本的には同じ問題であるが、
臨床能力の低い産業医は、
「抑うつ気分=うつ病=抗うつ薬で治療」「涙を流す=うつ病」と
デジタル的に、短絡的反射的に捉えて「治療」すべきだとする。
労働者の元々の性格、労働意欲、現在の職務、人間関係やノルマ、
労働時間などの労働環境、家庭環境などを総合させて考え、
「抑うつ状態」を多角的に捉えることができない。
すぐに薬を出すのではなく、
労働者の環境、残業時間や職務内容を改善すべく調整をする、
という環境調整の視点が、レベルの低い産業医には欠けている。
このような、産業医の個人的な臨床能力の問題はもちろんあるが、
私にはそれが根本的な問題とは思えない。
言うまでもないが、産業医は労働者の健康を守るために存在しており、
現場にいる彼らもそのように自覚していると思う(思いたい)。
にもかかわらず彼らが先に挙げたような初歩的な誤りを犯す。
それはどうしてだろうか?
そんな事情の背後には、
この現代社会に優勢な価値観(時代病理)があると思う。
公共事業でも教育でも医療でも福祉でも
全てを「費用対効果」のようにして「カネ」換算で評価するような
ハイパー資本主義が隆盛の現在、
自分がどこからお金を得ているのかを意識しておくことが大事とされる。
一般的な労働者が「何のために働くか」と問われても、
「給料をもらっているから」「生きるため」と答えるほかない。
会社に雇われながらも「世のため人のため」に働く、とは言いにくい
(そう言えば会社からは疎ましがられ、世間には嘘っぽく映る)。
公益よりも私企業の利益が優先、
会社に雇われている以上、働いている間は会社のためだけに尽くすべき、
というハイパー資本主義の価値観は
この現代社会にあまねく広がっている。
この現代にあっては、
「公益とは何か」と考えることさえタブーに近づいている、
と言えば言い過ぎであろうか。
このような時代にあっては、
産業医が仕える先は会社(経営者)でしかなくなる。
会社にとって、
メンタル失調を来した従業員は文字通り会社の経済的損失であり、
その損失を最小限に食い止めるのが産業医の使命となる。
その使命を自覚した会社に忠実な産業医は、
メンタル失調者を「早く治す」ことに血道を上げる。
その結果が、最初に述べたような産業医の勇み足的な行動である。
そのように、産業医が「早く治す」ことに一生懸命になった結果、
どうなるであろうか。
疲弊した抑うつ状態の従業員は、抗うつ薬を多く飲めば一時的にせよ、
元の元気を取り戻したように見えることがある。
しかし、実はそれは大きな落とし穴である。
発病前に無理をして消耗して抑うつ状態になったのに、
十分な休養を取らず、抗うつ薬を服用するだけで
更にまた無理ができる状態に戻れば、
早晩もっとひどい抑うつ状態に陥るのが関の山である。
(覚醒剤でいったん元気になった錯覚を得た者は
後にひどい倦怠感を感じるのと同じだ。)
一般にうつ病の再発時には治癒の割合が低くなるのは、
一つにはこうした事情があるからだと思う。
(会社が退職や降格をちらつかせてくるから
仕方なく無理をしている労働者のいかに多いことか、
日々の臨床でしみじみ感じる)
このような臨床状況があるためなのか、
昨今は産業医の中に精神科医の割合が多くなってきていると聞く。
それでも、先に挙げたような初歩的な誤りを犯した産業医の中には、
ベテランの精神科医もいた。それは本当に悲しいことだ。
私たち精神科医は、自分が置かれた社会的境遇はさておいて、
患者からどのように世界が見えているかを想像するトレーニングを
してきたはずだ(と思いたいが最近の実情は・・・)。
私が若い頃は、
「若い精神科医は子どもに共感しがち、中年になると親に同調しがち」
であるから注意せよ、と戒められ、
精神科医は、「貧乏人から大金持ちまで、老若男女皆に共感できる」
ことが理想であると説かれた。
つまり、精神科医は自分の立場や世の中の一般的価値観を
いったん括弧に入れておき(中立)、
様々な境遇にある患者に共感する姿勢を忘れないことが大切だ、
ということだ。
しかし、この21世紀のハイパー資本主義の時代は、
そんな臨床姿勢を許さない。
産業医が己の良心に従った振る舞いをすれば、
「お前は従業員の側か会社(=経営者)の側か」との二者択一を
迫られかねない。
「会社=資本家のもの」と単純化するハイパー資本主義の論理は
「中立」や「公正」という立場を許さない、身も蓋もないものである。
しかしながらやはり、産業医に限らず私たち医師は、
目の前の患者の健康を守ることが本分である。
昔は、洋の東西を問わず、医師が得る報酬とは、
今の労働者の「賃金」とは意味合いが違い、
「謝礼(honorarium)」であった。
「謝礼」とは、たとえば医師、弁護士や教師が
自律的な倫理に従い働いた結果としていただく報酬である。
それは、労働者が
自分の時間と労力を雇用者に切り売りしていただく「賃金」とは
一線を画すものであった。
少し前の時代まで、先輩医師たちの多くにはその自覚があったと思う。
ハイパー資本主義の現代では、私たち医師の得る報酬は
一般労働者と同じく「賃金」としかみなされなくなっているが
(少なくとも産業医に支払う側の会社はそうみなしているだろうが)、
医師は己が得る金銭の意味につき、よく考えた方が良いと思う。
特に、産業医のように診療する相手から直接報酬を得ない立場ならば、
かなりの注意・自覚が必要だと思う。