毎年正月になると人生を見直し、生き方を考える人も多いと思う。私もその一人だ。最近の日本人の生き方について、臨床経験も私個人の体験も踏まえ、考えていることを書きたい。
私が年をとったと感じるのは自分の誕生日ではなく正月である。自分の誕生日は、誰かが教えてくれないと忘れる。仕事が忙しい時期だ。しかし、正月は仕事にもゆとりがあり、日本ではいやがおうでも年が変わることを知らされる風潮だから、年をとったことは正月に感じることになる。私はもう、中年層の中堅に入った。若い頃の感性、記憶力も衰えた。しかし、人生の幅が広がった。仕事に関して言えば、患者さんから受ける相談内容の幅が広がった。中高年夫婦の性生活の悩み、不倫行為の後悔、嫁姑問題、独居老人の孤独の悩み、遺産相続の問題など、いわゆる「人生問題」の部類に入る相談であるが、私が若い頃にはあまり持ちかけられなかった相談を受けるようになった。知人や親類からそうした相談を受けることも増えたが、仕事上での商談がいつのまにか相手の身の上相談になったりするし、最近では、私の素性を明かしてもいないタクシー運転手から身の上相談を受け、目的地に停車してからも話しこみ、「お客さんにこんなこと話してすみませんでした」と謝られた。でも、こちらは自分の悩みなのか彼の悩みなのかわからないような感じで応答していたので、彼に謝られて初めてハッと自分の立場に気づくことになった(気づいたら会合の開始時刻に遅れていた)。そういう、「ゆるみ」が年をとると出てくる。自他の境界がゆるんでくる。患者さんだけでなく、たまたま出会った人、テレビで見た人、歴史上の人物、いろいろな人の人生と同一化して、他人の歴史が自分のことのように思える時があるようになった。自分と全く境遇が異なる人と同一化してくる。映画を観て本を読んで、自分がヒットラーになったり、隠れキリシタンになったりする。鞭打たれる馬に同一化して御者に打つのを止めるように泣いて頼んだ、というニーチェの心境はかくあったか、と思う。そのように、想像を働かして他者をリアルにこの身に感じること、心が自分のところにあったり他人のところにあったり、どこか虚空にあったり、と、さまよう様を味わえることが、年をとった者の一つの楽しみ、旨みだと思う。年をとると歴史好きが増えるのはそのためだろう。
私の尊敬する先輩精神科医は忙しいのに何かと人の世話を焼き、若き日の私には疲れているのに無理しているように見えたが、今にして思うと彼は自分の自我にとらわれない、ある意味で「自由」な生き方を楽しんでいたのだと思う。年をとったらちっぽけな自分の存在にこだわらず、日々の出会いや別れの不思議、「縁」を感じながら、運命を感じ、自分がこの世界、この宇宙に存在していることの不思議をよく考えて味わって暮らすのが本当の自由、「三昧」の境地だと思う。
再び私の若い頃に戻ると、先に挙げたような中高年のカネや性についての相談は下世話な女性週刊誌が得意とする分野で、差別的な言い方になるかもしれないが、「オバサン」の生々しい欲望が露骨に出てくるので身体的に受けつけられなかったと思う。そういう話を聞くと私は自分の体が汚れるような気がしていた。患者さんの身体処置で汚物に触れる方がずっとマシだ、と思っていたところもあった。ところが、自分もだんだん社会の中でもまれて、年をとっていくと、自分もまた世の中の「オバサン」的な欲望と無縁ではないことをいやおうなしにわからされる。自分にも身近なところにも性やカネの問題が起きていることを知る。自分もまた自分が卑下していた「オバサン」になっていると思う。
しかし、今はいい年した中高年のオジサン・オバサンが「アンチエイジング」「自己実現」にいそしみ、美容に多額の金銭をつぎこみ、「本当の自分」探しに明け暮れ、挙げ句には未成年者にまで浮気相手を探し続けるような時代である。そんな「オバサン」たちにはついていけない。「自己実現」を求める彼らは、とにかく「自由」を求める。たとえばそれは、最近の嫁姑問題に如実に表れている。
昨今、姑が嫁を「いびる」なんて話は遠い昔話になったかのようで、今の嫁は姑らとの同居を拒否し、舅姑の介護なんぞ論外である。嫁が姑に平気で悪態をつき、年老いた舅姑は苦しみ、息子は間にいながらも何も介入できず無力でいる、そんな話を聞くことが多くなった。「姑いびり」「嫁天下」の時代である。そんなわがままな「オバサン嫁」は、自分が年老いた相手の立場だったら、という想像力を働かすことは無駄な労力と思うからしないし、年寄りの世話や介護は苦役にしか思えないから拒否する(代わりに子どもは溺愛する)。嫁に入り、義父母の一代で苦労して起こした家業の恩恵にあずかっていながらも自分の代になったら自由気ままに遊びながら、その上、義父母らには「年寄りは遊んでるだけだからいいね」なんて平気で言ってのける。そんな芸当が彼女らの「自由」であり、「自己実現」なのだ。
ある意味、そういうオバサン嫁の振る舞いは「自然」だと言える。動物的な合理性があるという意味での「自然」である。自分のDNAがつながる実父母や子どもは大事にし、DNAがつながらない舅姑はどうでもいい。夫であっても、稼ぎが悪くなったら簡単に捨てる。それは、生物学者リチャード・ドーキンスならば、「それはDNAのなせるわざだ、人間も動物、自然界の一員なのだ」と答えて話はお終いだろう。
家族の一員である人間にとっての「自由」「自然」とは何か、と考える時、唐突な話だが、オバサン嫁と平成の天皇は対極にある(天皇家は日本の家族の象徴でもあるから、引き合いに出すのもお許し願いたい)。天皇には言論の自由も職業選択の自由も移動の自由もない。そういう環境にありながらも今生天皇は、父の名によって起こされた太平洋戦争の犠牲者を弔うべく、老いても各地で慰霊のための活動を続けておられる。自分のルーツが薩摩藩にあり、その薩摩藩が長年琉球を搾取していたからその負い目を感じて沖縄訪問・慰霊の活動を続けてきたとも言われている。もしそうならば、オバサン嫁的「自由」隆盛のこの時代において、天皇陛下は自分の責任ではないことを引き受けて「不自由」に生きている。その活動は、「自由」と称するわがままを愛するオバサン嫁からすれば、天皇は不合理きわまりない生き方に映るだろう。オバサン嫁の目には、天皇はその「形式」を演じることに一生懸命で「自分」が無い、としか映らないだろう。
しかし人間、一見自由に見えても誰とて運命を選ぶことはできない。与えられた境遇・運命を全身で引き受け、その運のもとで、自分の能力体力で何ができるか何をすべきかを考える、そこに本当の意味での「個性」が生じ、精神の「自由」があり、美しい生の「様式」=人生の意味=美、が存すると私は思う。
その点につき、ニーチェは言う・・・「自分の性格に『様式を与える』ということ--これこそ偉大で稀有な芸術だ! こういう芸術を身に修める人間は、自分の天性がその長所と弱点に即して提供する一切を見渡し、ついでそれらをば、その一つ一つが芸術的とも合理的とも見え弱点ですらを見る人の眼を魅するぐらいにまで、一個の芸術的な見取図に組み入れてしまう。・・・彼らの強烈な意欲の情熱は、すべての様式化された自然、すべての征服され奉仕させられている自然を目にするとき、和らげられる。彼らが宮殿を築き庭園を造らなければならないときですら、自然を自由にしておくことは彼らの趣味に反する。--これに反し、自分自身を統御できない弱い性格の人々は、様式の拘束を嫌う。こうした醜い強制が課せられると、彼らは、それによって自分らが卑俗化されるにちがいないと感じる。彼らは、奉仕することを嫌がる」(『悦ばしき知識』信田正三訳)
これを読む私には、自分の性格(天性)に「様式を与える」ことを今も続けている天皇と、「様式の拘束を嫌う」「奉仕することを嫌がる」現代のオバサン嫁が対比される。私は全面的に前者の生き方に美を感じるが、このニーチェの文章、「畢竟どちらでもいい」と結んでいる。さすが永劫回帰の話を語れる人だな、と関心しつつ、そんな風にさらっと言える融通無碍な境地になりたい、もう少し生きて人生を味わいたい、と思うこの正月であった。