「カジノ法案」が議論されている。いったい、カジノを含め、「賭け事」の何が問題なのだろうか。
その問題点として、マスメディアでは「ギャンブル依存症」が多く取り上げられている。確かに、それは大きな問題だ。パチンコ発祥の地である名古屋の町中で育った私は、子ども時代からギャンブルで家庭崩壊した実例をいくつも見てきたし、臨床医になってからもそのような事例に多々当たってきた。
しかし、今回は別の視点から考えてみたい。
私たちが賭け事をすることの問題について、かのパスカルはこう書いている。
「わたしは、人間のさまざまな行動や、人が宮廷や戦場で身をさらす危険や苦しみのことを考え、かくも多くの争いや情念、大胆で時に邪悪なものにさえなる企てはいったいどこから生まれてくるのかと考察を巡らしたとき、人間のあらゆる不幸はたった一つのことから来ているという事実を発見してしまった。人は部屋の中にじっとしたままではいられないということだ。・・・会話や賭事などの気晴らしに耽るのも、自宅でじっとしていられないからにすぎない。」(断章139)
また、彼はこのようにも書いている。
「わたしたちの惨めさを慰撫してくれるただ一つのものは気晴らしである。ところが、まさにこれこそがわたしたちの惨めさの最たるものなのである。なぜなら、気晴らしをしていると、わたしたちは自分のことを考えないですみ、気がつかないうちに自分をだめにしてしまうからだ。気晴らしというものがなければ、わたしたちは倦怠に陥るだろうが、その倦怠はわたしたちをして、そこから抜け出すもっとも確かな方法を模索させるはずだからである。それなのに、気晴らしをしていると、わたしたちは楽しいために、気がついたときにはもう死がそこまで来ているのである。」(断章171)(『パスカル パンセ抄』鹿島茂訳)
ここには、私たちが「賭事」という「気晴らし」をすることにより「倦怠に陥る」ことを避けがちであるが、それは「気がつかないうちに自分をだめにする」行為であり、私たちは「惨めさの最たるもの」になる、しかし、安易な気晴らしをせずに「倦怠」をあえて甘受すれば一度きりの自分の人生についてよく考えるようになり、賭事というくだらない気晴らしなんぞよりもずっと上等な精神的満足を得るチャンスと捉えられる、というパスカルの洞察が書かれていると思う。
こんなことを言えば、「人生の楽しみを“考える”ことに見出すなんて、パスカルのようなインテリにはいいだろうけど、庶民の俺たちには、パチンコや酒ぐらいの楽しみしかないから、それを否定されたら、たまんないよ。」といった反論が聞こえてきそうである。そのような話は診察室でも度々耳にする。今自分が置かれている現実が辛いから「酒でも飲まなきゃ(賭け事でもしなきゃ)やってられない」というのである。そんな言い分を聞くとき、私は、半分は同意して半分は納得できない時が多い。
飲酒や賭け事のような「気晴らし」行為は、一時的に気分を楽にさせる。「楽になる」くらいでとどまるくらいなら良いが、「楽」を越えた「快楽」も伴い、それでいながら「満足」には至らない。パチンコで言えば、一時的にたくさん玉が出て快感を味わうが、すぐにまた「もう一度」「もっと」と次の快感を求める。借金してでもパチンコにのめりこむ。よりたくさんの出玉、より強い刺激を求めるようになる。タバコに手をつければ次は酒、果ては「危険ドラッグ」、というように、気晴らし行動は、どうしてもエスカレートしやすい。また、飲酒や賭け事という行為自体は、孤独な営為である。孤独な行動で満足を得ようとすると、どうしても度が過ぎることになる。社会と切り離されて孤独でいて満ち足りたと思う人は滅多にいないものだ。アルコール依存の人は、一人で飲酒する。宴会で大酒は飲むがよく喋ってみんなとコミュニケーションできる人がアルコール依存に陥ることは少ない。
では、飲酒でも賭事でも、「気晴らし」に耽っている人の心理はどうなっているのだろうか。彼らは、無意識的にであれ、「気晴らし」の時間が「本当の自分の時間」と思っている。「仕事の後のビール」「休日のパチンコ」の時間が一番くつろげる、と言う人も多い。そういう人は日常の労働にその意味を見いだせず、職場の仲間との連帯感も持てずにいる人が多い。彼らにとっては労働という、「素の時間」が「苦役」にしかならなくなっており、その苦役から解放された後の時間こそが「本当の自分」の時間というわけだ。それが彼らの「飲まなきゃやってられない」という言葉の意味である。
だから私は「半分納得できても半分納得できない」のである。人生の多くの力と時間を注ぐ労働の時、つまり平常の意識状態の時間を「嘘の自分」とし、それ以外の時間で飲酒やギャンブルに耽って意識が曇っている時間を「本当の時間」とするのは、倒錯ではないか。「生きている」実感を求めるならば、意識がはっきりとした時間に、自分が人生の長時間、一番精力を注いでいる労働時間の中にこそ求めていくのが正しいと思う。たとえその現実が辛くとも、逃避するだけでは解決しない。一時避難として、現実を見直す、人生を充実させるための時間稼ぎとして「気晴らし」行動を取る程度ならよいが、「気晴らし」行為自体が目的化してはいけない。そうなると「わたしたちは楽しいために、気がついたときにはもう死がそこまで来ている」事態に陥る。そんな生き方は、周囲の人をも厭世的な気分にさせてしまう。
このように考えてくると、賭博などにうつつを抜かすことを避けるには、真の意味で私たちの労働の意義が感じられる社会になれば良いと思う。映画『ラストサムライ』では、将軍から足軽、職人から女、子どもまでそれぞれの人がそれぞれの置かれた役割を自覚し、自分の仕事を一生懸命こなすことに生きがいを見いだしている古き良き日本の姿が描かれていた。もちろんそれはフィクションであるが、全くの嘘ではない。明治から昭和前半の実写の映像を見るとき、労働者の顔が生き生きとしているのに驚くことが多々ある。今の都市部における労働者の顔とずいぶん違う。何がここまでの違いを作り出したのか、検討が必要であろう。
そんなことは顧慮もせず、経済的合理性の観点のみから、安倍政権はカジノ法案を通すことに躍起のようである。これが安倍総理の掲げる「美しい国」のビジョンなのだろうか。悪い冗談である。これ以上繰り返し述べても仕方ないと思うが、賭博は本質的に無益であるどころか害が大きい行為でしかない。たとえ賭博が、例えば戦争のように人間が止めることができない「必要悪」的な行為だとしても、それを国家の「成長戦略」「地域振興」として、他の生産的な産業と同列にして国家が推進するのはおかしなことだ。引き合いに出して失礼かもしれないが、私には、この日本がスイス以下の国になってしまったと思う(スイスは「永世中立」の平和国家をうたいながら武器の輸出や犯罪者の金庫の役割を果たして利益を上げている)。ただ、そのスイスでさえ、表向きは平和国家である。日本はあくまで「裏稼業」である賭博を「カジノ」「リゾート」として外国に宣伝しようとしている。これはスイス以下の振る舞いである。情けない。私はこの日本にほんとうの「美しい国」になって欲しいので、こんな末席からでも苦言を呈したい。