先に取り上げた「自己愛トラウマ」が文字通り「トラウマ」、つまり「心的外傷」であるとすると、臨床現場ではどういうことになるだろうか。
「心的外傷論 traumatology」の考え方の元は、「外傷 trauma」つまり身体の「ケガ」のモデルである。このモデルでは、「トラウマ」を「負った」人は脳に「拭い去ることができない外傷」を負ったとされる。「忘れがたい記憶」は、切り傷の跡のように脳に何らかの障害を与えた、とする説明である。実際、北米を中心に、PTSDの脳障害の研究が進み、例えば「海馬の萎縮」「扁桃体の異常興奮」といった、目に見える「外傷」の証拠が「発見」されてきているとされる。ただ、たくさんの研究成果が発表されていながらも、いずれも隔靴掻痒の感がある、部分的な「説明」にとどまっている。PTSDという疾患は脳にこのようなダメージがある、それはこのくらい治りにくい外傷である、それは他の疾患とこのように違う、といった包括的な説明には至っていない。
それでいながらも、「ショックな出来事」は脳に文字通りの、(なかなか治らない)「外傷」を負わせる、という考えは、素朴に、いや頑固なまでに是認されている(そうした現代の時代精神については別の機会に触れたいと思う)。 もちろん、その「外傷」は治りうるものだともされている。しかし、それでもいったんは「受傷」したものだとされる。実際、PTSDは、「疾病」だけでなく「障害」ともされている。PTSDを患っている人は、障害年金の受給対象になる。労災認定もされている。障害年金や労災の対象疾患になるということは、その障害(疾患)が簡単には治らない状態、つまりは「障害 disability、handicapped」を意味する。裁判においても、「PTSDを負わされた」、ということが「傷害」事件の立件要件に当たるとされている。実際、現在係争中のいくつかの裁判においても、加害者側の弁護士が「(被害者に生じた)PTSDは事件との因果関係はない(つまり、元々の被害者側の弱さのためだと主張)」などと弁護し、被害者側は事件がPTSDの「原因」だ、と主張してもめている。いずれにせよ、被害者側も加害者側もPTSDを、身体のケガのように実体として「障害(傷害)」と捉える視点には変わりない。
一方で、PTSDについては、あくまで現代のアメリカ文化に多分に影響された「文化結合症候群」だとする立場がある。(アラン・ヤング『PTSDの医療人類学』、イーサン・ウォッターズ『クレイジー・ライク・アメリカ』などに詳しい)。PTSDは、ベトナム戦争の兵士への補償として急ごしらえで作られた疾病であり、それは疾患としての基盤を持たない、つまり、脳の病理とするにはその証拠が無いし、他の不安障害との区別がはっきりしないし、ある文化の一時代の流行病である(例えば昔の日本で、究極の恋愛の形として「心中」が流行ったがそれと同じような、流行の心の現象だとする)、と主張する考え方だ。
そうしたヤングらとは対称的な考え方として先に述べたように、PTSDを「普遍的な病気」、つまり脳の病理に基礎づけられた実体的な病気だとする、ハードな疾患概念(つまりは古典的科学者に似ている)がある。私は、岡野が意識的か無意識的かは知らないが、後者の立場にいると推測する(あの犯人KTのについても結局は「アスペルガー障害」という生得的な脳の障害に病理を求めているのだ)。一般に、論文を書く研究者や専門家を称する人は「普遍的な病理」を追求したがるものだ。ある地域の一時代に限定された「文化結合症候群」について研究しても、科学的研究の歴史から忘却される可能性があるから、それを怖れるのだと思う。精神分析のフロイトも、そういう怖れを持っていたようだ。精神分析という、個人の一回きりの現象を研究するという面では歴史学などと近縁であると思われる探求をフロイトは、およそ客観的な科学、例えば物理化学のような「ハードサイエンス」と同列に「科学」として確立しようとしていた。彼は、いつかはアインシュタインの相対性理論と精神分析が包括理論で説明できる、という絵空事を信じていたようである。フロイトはともあれ、現在の「心的外傷論」研究者の大半の考え方が、火傷や切り傷のような物理的「外傷」をモデルにしていることは確かのようだ。特に精神医学系の研究者のほとんどは「脳の病理」を想定している。 現時点においてPTSDないしはトラウマについての「脳の病理」がどのようなものかはわかっていなくとも、PTSDという一つの疾患単位があると自明に受け入れられているのがこの時代のアメリカや日本の趨勢だ。
ならば、身体のケガと同様に、トラウマの受傷者がどういう経緯で受傷したかどうかにかかわらず、そのトラウマに対して手当てや治療が必要ということになる。例えば、人を殺そうとしたら相手の抵抗にあって誤って自分の手を切ってしまった犯人の傷であっても、虐待された子どもの骨折であっても、全く同じように医療的な手当てや治療を施すが正しいとするのが現代の私たちの常識となっている。それが人道的とされる。囚人が自分の罪を悔いて壁に頭を打ちつけて裂傷を負っても、もし看守がそのケガへのケアを怠ったならば看守が罪に問われるのが現在の日本の法律だ。さすれば、岡野の論で行くならば、「自己愛トラウマ」が脳の「外傷」であり、手当てが必要な「疾病」となり、先の凶悪犯KTについてもPTSDという「ケガ」ないしは「疾患」「障害」ついて「治療」が必要ということにならないだろうか。さらにここでは、刑法第19条との関係も生じてくる。この法律によれば、精神を病んで犯罪を犯した者には減刑が必要となる。「自己愛トラウマ」によるPTSDでも、犯罪被害によるPTSDでも、同じ「疾患」とみなすならば、犯罪者が「自己愛トラウマ」に苦しんでいる、もしくはPTSDに罹患しているとするならば、「心神耗弱」による減刑が必要ということになりうる。これでは死刑判決は簡単には出せなくなるだろう。これは、一般の人の常識に反しないだろうか。
結局、精神の疾病というものを、脳という「モノ」の病理と捉える限り、PTSDを診断するに当たり、「どういう経緯でそのような疾病、心理状態に至ったか」という文脈は無視される。岡野の「自己愛トラウマ」もそうした「文脈」を無視して「トラウマ」概念は拡大されているように見える。一般の医学的診断に当てはまることではあるが、「文脈」は無視されがちである。特に外傷モデルはそうだ。調理師のミスによる火傷でも、親に熱湯をかけられた火傷でも、いずれも診断は「熱傷」である。治療も同じである。しかし、精神科診断についてそれは妥当であろうか。自分勝手に自己愛を肥大させて「トラウマ」を負ったとして他人に危害を加えた人間への対処と、親から虐待を受けた子どもへのケアとが同じになるというのはおかしなものだ。こと人間の心に関する精神科診断については治療論とセットであることが望ましいと思うが、どうだろうか。加害者にはやはりまず反省していただき、たとえPTSD症状、「自己愛トラウマ」があろうともそれを自ずから生み出した苦しみであると受け止めて反省いただく必要がないだろうか。先のKTのような人間がPTSDを病んでいたから、と弁明して自己の行為の責任を減免されるのはいかがなものか。結局、「自己愛トラウマ」という概念を提唱した場合、それが医療現場での治療論や司法的処遇とどういう関係を持つか、どういう影響を持ちうるか、そういった政治的臨床的な問題について岡野の本では言及が少ないのが難点である。その点において、この本は、一般科学の研究者が「とりあえず発見しました」と宣伝するのと同じような無邪気な感覚があるように思える。そういう意味で、「自己愛トラウマ」論はフロイトの素朴な科学主義と共通するように見える。
ただ、「自己愛トラウマ」は、肥大した自己愛者が急増している現代社会において、昨今の私たちの臨床現場に広く見られる特徴的な心の状態である。KTのような人間は極端だが、自己愛人間が「傷ついた!」と怒って勝手な怒りを爆発させるような場面は、少しづつ着実に増えてきている。そういう面で「自己愛トラウマ」は、現代の社会病理をも簡潔かつ適確に表現している用語であると思う(ただやはり、「トラウマ」の用語は避け、「自己愛的怒り」の表現にとどめておく方が良いと私は思うが)。この提唱を得て医療や司法の現場の人間が「自己愛トラウマ」の病理をどう扱っていくか、それを考えていくことが実りをもたらすと思う。原子力の発見を生かすも殺すも実践次第である。そういう意味で、岡野から臨床現場の私たちに良き課題をいただいたと思っている。