この1年余、メルマガなるものを書き続け、ブログの方は長らく更新できずにいた。日頃、他人のブログどころか、SNSやメルマガといったものを未だに全く読まない、私が書き続けている。奇妙なことである。不特定多数に訴求しようとする行為は元々自分には合わないと思いながら、続けている。
それでも、私にとって悪いことではない。メルマガ独特の改行の制限は、論文的な文章を書く上では不自由になりながらも、私たちは日常臨床では話し言葉で短文・単語でやり取りしているのだから、メルマガと診察室の中での会話とには共通部分もある。精神科医にとっては、本や論文を上手に書くよりメルマガをわかりやすく書ける方が臨床力は高いのだと思う。(もちろん、本の表現と臨床での対話を上手に使い分け、どちらも一流な精神科医はいるが、私見ではそういう人は少ない。)
先日私のメルマガに書いた一文をここにあげておきたい。
<心における「不足」「過剰」について>
診察室の中で、不満・不足の表現をよく耳にするようになりました。
患者さんや御家族いわく、
「ビタミンが足りないのでしょうか」、
「脳にセロトニンが足りていないのですね」、
「女性ホルモンが足りないのでしょうか」、
「疲れてるからから点滴してもらえませんか」、
「(足りないものを補う)サプリメントは何がいいですか」、
「親の愛情が足りなかったからこうなった」、
「まだ新薬が開発されていないから(病気が治らない)」、
「上司が親切にしてくれなかったからこうなった」、
などなど。
医療に対する不満もたくさん聞きます。
「5分しか話を聞いてもらえない」、
「救急車で運ばれたのにろくに検査もしてくれなかった」、
「いろいろ説明されて治療法を選べと言われても困る」、
などなど。
私は、この21世紀の日本の医療を考える時、
我田引水と言われそうですが、
日本の医療体制は世界に誇って良いレベルだと思います。
いつでもどこでもフリーアクセスで専門医の診療を受けられて、
「安心のため」程度でも、先端医療機器による精密検査を受けられ、
低所得の人でも低負担で最新の薬物を与えられる。
アメリカでもイギリスでもドイツでも、
こんな贅沢な状況は聞いたことがありません。
昨今では外国との行き来が多いため、私の個人的な診療経験でも、
日本人の海外在住時の医療体験を聞き、また、外国人を診療し、
欧米の医療体制は決して良いことづくしではないことがわかります。
慢性病を患った欧米人が、日本で公的医療扶助を受けていましたが、
お国に戻ったら医療費が支払えないから、と
帰国をあきらめて日本に住み続ける例もありました。
個々の医者の技量はさておくとして、
医療体制としては、日本のようなレベルの国はなかなかありません。
しかしながら、「医療に対する満足度」を調査すると、
今の日本は諸外国よりずいぶん低いそうです。
昭和時代に「医療満足度調査」があったかどうか知りませんが、
もしあったならば、おそらく今よりもっと高かったと思います。
私たちが医師になった平成の始まりの時、
先輩医師が結構荒っぽいことをしていても、
あまり不満を口にする患者さんはいませんでした。
私から見て、あれはもっと患者さんが抗議しても良かったのでは、
と思えたケースでも、患者さんは
「まあ、先生も忙しいし、私よりもっと重症な人もいるから。」
と言ったりして遠慮をされることもしばしばありました。
私はここで、現在の日本の医療体制に感謝せよ、とか、
もっと医者に敬意を払え、
という意図で話しているのではありません。
ただ、医療につけ福祉につけ教育につけ、
その体制や処遇につき「不足」「不満」と思う時に、
少し考えておくべきことがあるように思うのです。
私たちの精神科領域での話で考えたいと思います。
その昔は、いろいろな精神症状が、
「狐」や「悪魔」が「憑いた」ため、と説明されました。
その病理は、「不足」の考え方ではなく、
外部からの「憑き物」として、皮膚で言えば「おでき」のように、
不要なものが「ついた」と捉えられていました。
「付いた」のであれば、取り去るのが治療です。
「悪魔払い」や「除霊」が治療になるわけです。
もう少し最近、19世紀から20世紀の後半までの精神病理の理論でも、
例えば強迫観念と言えば、「とらわれ」「我執」の病理だとか、
過剰な性的衝動や「過剰」な攻撃性が歪んだ形で表出された、
などと考えられていました。
具体的に言えば、ある人が強迫観念に悩む時、その背後には、
その人が好意や敵意を持つ人への性欲や殺意などがあり、
しかも本人は「自分はそういう悪い人間ではない」として、
心の中にある感情を無意識に抑え込む(抑圧する)ために
強迫観念が生じるというのです。
フロイトのいう「エディプスコンプレックス」、
森田正馬のいう「 負け惜しみの意地張り根性」「自意識過剰」、
下田のいう「執着気質」など、です。
これらの表現には、
「コンプレックス」「根性」「過剰」「執着」
といった、生命力を感じさせる言葉があります。
そういう病理が仮定されると、その治療は、
「いかにその衝動・エネルギーを、社会適応的に、
もしくは本人の納得が得られるように、善用していくか」
が課題となりました。
森田療法では、入院して何日もの間、他人との接触を断ち、
自分の心の中の動きを「あるがままに」見つめることが、
治療の始まりでした。
(森田療法のキモのほとんどはそこにある、と言えそうですが)
また、その近現代の時代では、
幻覚や妄想などの症状についての説明理論はどうだったでしょうか。
それらの症状も、脳の中の神経の「過剰興奮」が原因とされ、
その治療には、クロルプロマジンなどの「神経遮断薬」が使われ、
症状を産み出す脳の部分を「切除」するロボトミー手術が行われる、
といったふうに、「過剰」を「遮断」「切除」する考え方でした。
その時代、例えば、詩人ランボオが、
「おれの健康はおびやかされた。
恐怖がやって来た。
幾日も続く夢に落ちこみ、
起きあがってもまだ世にも悲しい夢から夢を見続けていた。
・・・
おれは旅をして、頭に集まったさまざまなまどわしを
散らしてしまわなければならなかった。」
(『地獄の季節』粟津則雄訳)
と歌ったように、
また、
シェイクスピアの悲劇の主人公たちがあふれ出る感情の発露としての
幻影を見たように、
人の心は「過剰」な欲望、羨望、恨み、復讐心などに「惑わされる」、
という理解であり、
人の心の底は「計り知れぬもの」があるとの理解が一般的でした。
しかし、21世紀になり、あらゆる精神疾患は、
セロトニンなどの各種の脳内物質が「不足」しているからだ、
と「科学的」に、ドライな説明がなされています。
うつ病はセロトニンとノルアドレナリン、
強迫神経症はセロトニン、
アルツハイマー病はアセチルコリン、
だと、「原因物質」の「不足」を病態だとします。
これらの説明理論は、あくまで仮説なのですが、
何らかの「不足」が病態なのだから、
薬によってセロトニンを補充し、
電気刺激を与えて脳の活性化を与え、
認知療法や心理教育で正しい知識を与える、
というのが治療の要諦となるのです。
(消費者に「不足」感を喚起すること、
必要ないモノを欲しがらせることは、
現代のマーケティングの基本手法であり、
それは製薬会社のCMによく表れていないでしょうか。)
さて、ここでは精神疾患の病態が何かの「過剰」か「不足」か、
との議論をするのが目的ではありません。
フロイトが正しいか、認知行動療法が正しいか、
そんな話を展開したいのではありません。
先述のように、精神疾患の病理の詳細は、
まだ誰にもわかっていないのです。
(生物学的精神医学の人たちが言うような、
脳内物質の「過剰」か「不足」か、というだけで疾患を考えるのは、
あまりに単純化し過ぎです。)
私が、「不足」の表現を口にし続ける時に問題だと思うのは、
私たちが自分の中の強さ・生命力・回復力に気づかずに、
無力感が生じてしまうことです。
私たちは、たとえ重い精神病の状態にあっても、
正常な判断力や回復力をいくらかは保持しているものです。
その時に、患者さんの病的部分に、
何か「不足」しているところばかりに注目させれば、
患者さんは悲観的になるばかりでしょう。
もしくは、患者さんは赤ちゃんのように受け身的になり、
他人が「不足」を充足してくれるのを待つばかりでしょう。
(俗に「新型うつ病」と言われる人の中で、
彼らのこのような受け身的姿勢を見た周囲の人が彼らに嫌悪感を持ち、
こじれているケースを散見します。)
そのような事態に陥ることを避け、
患者さんがその存在に気づかないか、忘れてしまっているような、
自身の生命力・回復力に気づかせ、
その力を強めていくのが私たちの治療です。
もう一つ、「不足」の表現を多用する時に問題だと思うのは、
「不足」の反対である「満足」の状態を措定することの弊害です。
私たちが「不足」を嘆く時、他人との比較をし、
例えば、「何一つ不自由のない生活」、「将来の不安がない保障」、
「健康に満ちあふれていつまでも若々しい状態」など、
TVコマーシャルに出てくるきれいな俳優さんたちのイメージを、
私たちのあるべき、「満足」「理想」としていないでしょうか。
そこまで行かないまでも、
「同年代の元気な人と比べて私は・・・」、
といった比較をしていないでしょうか。
まだ見ぬ理想の新薬が与えられないから私は不幸だ、
などと思わないでしょうか。
人間、理想を言い出せばキリがありません。
理想状態を基準にして現在の自分を見れば、
答えは常にマイナスでしかありません。
そのように、「不老不死」のような理想状態を求めることは、
かつては「貪欲」とされ、古来から洋の東西を問わず、
「貪欲」を持つことは戒められてきました。
もしくは「貪欲」を持つことの落とし穴につき警告されてきました。
例えば、
「欲望をかなえたいと望み貪欲の生じた人が、
もしも欲望をはたすことができなくなるならば、
かれは、矢に射られたかのように、悩み苦しむ。」
(『ブッダのことば』中村元訳)
などと警告されてきました。
こんなことを言う私とて、
日々、貪欲や煩悩に悩まされ続けています。
しかし、その一方で、幸福とは、まさに「今ここにある」ものだ、
とも思います。
ランボオは、先の一節に続けて、
「おお季節よ! おお城よ!
無疵(むきず)な心があるものか?
・・・
ああ! もう何も欲しくない。
幸福に養われてきたこのいのち。」
と歌いました。
「理想」の状態ではない、「無傷な心」ではない私たちであっても、実は、
今・目の前にある「幸福」を見落としているだけかもしれないのです。