日頃の診療の中で、代替医療についてしばしば尋ねられる。「『命の母』飲んでもいいですか」「鍼を受けた方が良いでしょうか」「グルコサミン飲んだ方が良いでしょうか」、などなど。こういう質問を受けるとき、時々返答に迷う。代替医療の薬品やサービスは概して割高な治療が多く(薬の成分は医療用では安価な薬物が、そのいくつかの組合せによって百倍もの値段になる、というまやかし)、しかもその治療効果について眉唾なものが多い。実際、これまでの私の患者さんに限っても、「ダイエット治療」をうたった薬物や食品に甲状腺ホルモンなどの毒物が含まれていて健康被害に遭ったケースも何例も見てきた。健康食品に関する詐欺事件も後を絶たない。
代替医療につき、医療者ではない一般の方にもわかりやすい本でお勧めなのが、『代替医療のトリック』(サイモン・シンら、青木薫訳、新潮社)だ。この本の中には、医師免許を持たない人がする「治療」、一般に代替医療(alternative medicine)と呼ばれる「治療」につき、科学的に検証されている。例えば、鍼、ハーブ(漢方薬含む)、カイロプラクティック、バッチフラワーレメディ、などだ。そういう治療法が、本当に効果的なのか、を検証する良い方法が、臨床試験である。臨床試験として、一番わかりやすいのが、「二重盲見試験」である。これは、比較をしたい2種類の薬、例えば本物のグルコサミン錠と、見た目上全く区別のつかない偽物のグルコサミン錠とを、例えば腰痛に悩む患者1000人を500人ずつに分けて投与し、その経過を見る、というものだ。この試験を行う時に、医者も処方される患者も双方ともが、どちらの薬で「治療」しているのかわからないように設定する、というのが大事なところだ(もちろん試験前に患者さんの側に了解を取っておく)。この例でいけば、本物の薬を飲んだ人のグループも、偽の薬を飲んだ人のグループも、それぞれ300人ずつに治療効果があったとすれば、グルコサミンは治療薬として認められない、ということになる。「治った」人は、自然回復力とプラセボ効果によることになる。
シンらは、鍼治療やハーブ治療などの臨床試験の結果などをひとつひとつ取り上げ、私たちが、代替医療に対して、どんな効果がどの程度期待できるのかを明確にしている。例えば、朝鮮人参はインポテンツや癌には効かない、イチョウは認知症の予防になるかもしれない、セイヨウオトギリソウは軽症のうつ病に効果がありうる、などなど。
ただ、例えばハーブについては、効果があるものは必ず副作用があり得るし、その費用にはあまりにも法外な値段がついている治療法が多いし、代替医療に関係する業者・業界の構造的な問題があることを、この本では克明に描いている。大変よく調べられている。欧米の良識あるジャーナリストの見識を感じる。日本のマスメディアでは、何か一つ薬物の副作用が生じると誇張して大騒ぎするだけで低レベルだが、シンらは冷静に考察・検証を進める。この本の最後で、シンらは、「医学の父」ヒポクラテスの言葉、「科学と意見という、二つのものがある。前者は知識を生み、後者は無知を生む」を引用し、「代替医療」は、(科学的な)現代医療の「代替」にはならない、「あらゆる治療法に対し、科学的な水準を満たすこと、検証を行うこと、規制を設けることを要求する」と結論づけている。
私も、シンらの考えは概ね理解できる。薬物の治療効果につき、二重盲見試験のような検証を経なければ、シンらの言う「暗黒時代」の医療に戻ってしまうと思う。大して効果もない、材料としても安い薬を高く売りつける、詐欺商売が横行していた時代に戻るというのは良くないと思う。ただ、臨床医の立場からすると、シンらの「科学的検証」賛美には、少々疑問が生じる。二重盲見試験について考えればわかるように、「科学的検証」とは結局は統計的な検証にすぎない。「統計的検証」は、ハーブや薬についても、あまりにも種類が多すぎて、すべての薬物に妥当な検証が行われているわけではない。例えば、抗うつ薬一つをとってみてもその評価は難しい。私が駆け出しだった90年代の話だ。ある抗うつ薬が1日10mgの少量服用でも治療効果が結構あるのは、日本の臨床医の中では自明な事実だった。しかし、ある時、統計的研究に詳しい大学の先生が、「海外の統計的研究では、1日25mg以下の投与では、飲まないのと同じだったと結論が出ている。そんなまやかし治療は止めろ。」と指導していた。指導を受けた若い医師たちは、抗うつ薬の少量投与をためらうようになった。その結果、治療はうまくいかなかった。その数年の後、同薬の少量投与につき、日本での統計的な検証がなされ、「1日25mg以下の投与でも効果的なことがある」とされた。その間に余計な量の薬を出された患者さんは被害者とも言えるが、「科学的思考」の先生にはそんなことはどうでもいいのかもしれない。
たった一つの薬剤をとってみても、その治療量について、その治療対象の疾患の均質性について、その疾患の症状の改善をどのように数量評価するか、年齢差、遺伝子差など、あまりにも多数の因子があり、科学的検証・統計的検証をする、と簡単には言えても、現実には大変なことだ。そういう方法論的問題に加え、昨今では経済原理が働く。自社の薬を売りたいばかりの製薬会社は、「産学共同」の名の元に自社製品のコマーシャルを学術論文の形で売り出す。その統計結果を操作する。最近日本で話題になった、高血圧治療薬ディオバンの治験問題は、実は10年以上前から欧米では日常茶飯事である。株式会社が自社株の株価を上げるべく情報操作するようなことは、医療の世界でも多々行われている。
このような現実を考えると、先のシンらの結論は、方法論的にも倫理的にも正しいとは思うが、実際に臨床に応用していくとなると、結構難しい。「情報」の取捨選択が本当に難しい時代だ。私自身、「科学的医療を正しく行っている」という自信はない。ただ、現場の臨床医として、怪しげな情報には気をつけている。シンらの言うような、統計学に偏りすぎた「科学的医療」の知見の臨床応用につき、日々迷いながらも検討しているところだ。ヒポクラテスの表現にならって言えば、「知見は生むが治療はできない」にならぬように、「科学」との付き合い方を考えているところだ。