運良く、このたびの金環日蝕を見ることができた。30年以上前に黒いプラスチックの下敷きをかざして一生懸命に見ていた子どもの時と同じように感動している自分がいた。私は、日頃の卑近な生活や仕事のことばかり考えていると気がおかしくなるタチなので、しばしば遠い宇宙や太古の昔のことに思いを寄せると気が落ち着く。30数年前の、無邪気な小学生だったあの頃も、それなりの役割を得て世の中の酸いも甘いも多少は知った中年になった今も、同じような気持ちで変わらず、星々のことを思う。不勉強なので、私の宇宙科学の知識は30年を経てもあまり変わっていないものの、宇宙の始原や宇宙の未来について思いを馳せると心が癒されるのは変わっていない。
太古の昔から人類は、どの地域でもどの民族でも、今よりももっと星々の動きに畏敬の念を持って必死に観察し、そこから自分の生活や人生を観想する人が多かったはずだ。月ばかり見て物思いにふけっていて気がおかしくなっている人の様子はデューラーの絵『メランコリア』に描かれているし、狂気を表すlunaticなる英語の語源も月だそうだ。今回の日蝕のような現象が起これば、昔の人はさらに信仰心をかき立てたられたり、逆に「不吉」だと不安をあおられたりしただろう。今回のように、惑星が一列に並ぶ現象で人々の心がざわめく例としては、最近でも「ノストラダムスの大予言」ブームがあった。
私とは違って、この地上から遠く離れた星のことなんぞどうでも良いと考える人もたくさんいる。宇宙のことなど考えるのはヒマな人間で、「現実」を見ずに「逃避」することだという人もいる。これは個々人の好みの問題であると言えるが、最近のこの日本では、この地上のただ今の自分のことにだけ、明日の「生活」のことにだけ、もっと言えば金銭や色恋のことだけしか考えず、ちっぽけな私たちを超えた天球の星々の動きには全く関心を示さない人が増えた。そういう風潮に呼応して、最近の政治家やマスメディアの言説は、国民の生活の「質」や「満足度」に関して、金銭や支持率という「量」や「数値」に換算した話ばかりだ。これには本当に辟易する。
精神医学や精神分析の概念や用語にも、一部にそうした傾向が見られる。卑近な日常生活を考えるのが「正常」であり、金銭や色恋のことを離れた宇宙のことなどを考える性癖の人は病的だとして差別しかねない表現がある。私のような宇宙的空想癖のある人間は、精神病を発病しやすい「分裂気質」との用語で評される。若い頃、精神科医の仲間内で、ある先生の提唱した理論について話し合っている時、結構な権威のある大先生が「彼は分裂気質だからね。」の一言で話を片付けようとしていたことがあった。私はその大先生に、理論とその提唱者の性格とを分けて考えることもしない学者としての怠慢な姿勢と、下劣な品性とを感じて大きく幻滅した。残念なことに、その後もこの業界でそういう物言いに何度も遭遇した。精神医学的診断をすれば他人の心の全てがわかったかのように錯覚する輩がこの業界にいるのは本当に残念だと思う。
そういう話の別例としては、私の好まない精神分析用語、「昇華」という言葉がある。「昇華」と言えば、中学理科では「固体が液体にならずにそのまま気体になる(例えばドライアイスが二酸化炭素となって雲散するように)」現象を指すと教わった。ある種の条件では氷や金属という固体が溶けることなくそのまま気化するという、錬金術・秘術的な雰囲気を感じる言葉だが、これは精神分析学では一転して、「性的・攻撃的エネルギーを社会的に有益な活動に使う」と規定される。精神分析の考え方でいくと、芸術家でもスポーツ選手でも学者でも、その諸活動は全て、エネルギーの源が性欲や支配欲である。人間も動物の仲間であるから、動物的欲求が活動の源であると考えるのは妥当ではあるが、その考え方で人類の全ての営為を説明するのはいかがなものかと思う。
動物とは違って人間には、世界や宇宙の起源を知りたいという欲求が根源的にある、と措定することに精神分析学は躊躇しているのだろうか。動物的衝動を社会的に有益な活動に使う現象を表現するだけならば、 美しい化学用語である昇華なんて言葉は使わずに、柔道の創始者の嘉納治五郎先生の表現を借りて「精力善用」と言った方が適切だと思う(フロイト的に言うなら「性力善用」と言った方がいいかな。)。
本当に「昇華」という表現を使うのに適切な心の機制は、次のニーチェの言葉にこそ表れている。ニーチェは、 ワーグナーとの親交とその後の反目を経てお互いが疎遠になってしまった頃、その友情と別離の体験を自分の中で良きものとして消化すべく、次のように語っている。
「星の友情――われわれは友達であったが、互いに疎遠になってしまった。けれど、そうなるべきが当然だったのであり、それを互いに恥じるかのように隠し合ったり晦まし合ったりしようとは思わない。われわれは、それぞれの目的地と航路とを持っている二艘の船である。もしかしたらわれわれは、すれ違うことがあるかもしれないし、かつてそうであったように相共に祝祭を寿ぐことがありもしよう、(中略)われわれが互いに疎遠となるしかなかったということ、それはわれわれの上に臨む法則なのだ! まさにこのことによって、われわれはまた、互いにいっそう尊敬し合える者となるべきである! まさにこのことによって、われわれの過ぎし日の友情の思い出が、いっそう聖なるものとなるべきである! おそらくは、われわれのまことにさまざまな道筋や目標が、ささやかな道程として包みこまれるような、巨大な目に見えぬ曲線と星辰軌道といったものが存在するのだ、――こういう思想にまで、われわれは自分を高めようではないか! だが、あの崇高な可能性の意味で友人以上のものでありうるには、われわれの人生はあまりにも短く、われわれの視力はあまりにも乏しい。――されば、われわれは、互いに地上での敵であらざるをえないにしても、われわれの星の友情を信じよう。」(『悦ばしき知識』信太正三訳)
私たちは、運命的な出会いで友達や家族になり、何かの成り行きですれ違いがあり、疎遠にもなり、嬉しい再開もあり、悲しい別離もある。そうした出来事がなぜ起きたのか、本当の理由については私たちは知りえない。でも、その理由を、人知を超えた惑星の導きによって生じたと「信じ」ると、我々の心にいくぶんか味わいが深まらないだろうか?、一人一人の他人との出会いや別れがかけがえのない体験だと思えないだろうか? 私は、日頃の臨床や私的生活の中で、私の至らなさや相手の誤解によって、時には患者さんとの間で、時には個人的な知己との間で、齟齬や確執が生じて苦しむことがあるが、そうした時にしばしば、このニーチェの言葉を思い出す。このニーチェの思考こそが、まさに「昇華」と表現するにふさわしい。ここでニーチェは、ある「船」から別の「船」を見る平面的な視点だけにとらわれずに、いったん天空の高みに昇って自分たち「二艘の船」の「航路」や「目的地」を見ようとあがいている。この試みは決して動物にはできず、人間にしかできない行為でありながらも、「人生があまりにも短い」この世の我々が実際には決して至ることができないという不可能性も自覚している。それでも絶望的になるどころか、逆に大きな勇気や活力が与えられる。これは矛盾した論理であるが、この地上に生を受けた人間にとっては、「あまりにも人間的な」行為であり、人間のはかなさ、かなしさ、美しさを十全に表現していると思う。このたび、金環日蝕という「巨大な目に見えぬ曲線と星辰軌道」を目の当たりにし、私はいっそうその思いを強めた。