実質はアメリカが自国の都合の良いように「グローバルスタンダード」なるルールを作る、いびつで不平等な、第二の日米修好通商条約になりそうなTPPについての議論が盛んだ。総理大臣が薫陶を受けたという松下幸之助翁の会社も、国民の(National)会社から、世界中に音を響かせる(Panasonic)というグローバルな企業名に変わったのが象徴的だが、この間に日本の大企業の多くは多国籍化した。社会や国のための会社から、会社のための会社と変化した。トヨタの影響力の強いこの地方でも、リーマンショックの前から失職者や非正規雇用は増えていたがさらに加速しているのが現状だ。私の身内も相当な打撃を受けている。最近私の診療所で聞く会社の労働環境の話は、ますますギスギスして時には悲惨とも言える状況の会社が多くなった。TPP参加となれば更に、生産効率向上・コスト削減が至上主義の殺伐とした労働環境となり、低所得者は増え、精神疾患を病む労働者は増えるだろう。
その時は、私のところに来られる「患者」さんも更に増えるだろう。しかし、その「患者」さんの多くには、カウンセリングや薬などよりも、労働環境の改善や社会保障の手当てが必要になるだろう。その一方で、医療や福祉もTPPにより国民皆保険制度など現行制度の存続も怪しくなるだろうし、生活保護制度や年金制度も今より頼りないものになるだろうから、不安が不安を呼ぶ、悪循環が起きるだろう。
医療の業界では、日本医師会がTPPに猛反対しているようで、マスメディアでは「抵抗勢力」「既得権益」の代表のように扱われる傾向もあるが、医師会の利益は差し置いても、TPPによって、患者さん、結局は国民の不利益は相当なものになると予想される。
現時点でも、既に私の専門診療分野では、「アメリカン・スタンダード」の弊害はたくさん出てきている。以前にも触れたが、あるアメリカの製薬会社の抗うつ薬は、日本での臨床試験で「効果無し」との結論がいったん出たものの、試験方法を全く別の、科学的に非論理的なやり方としか思えない「再試験」をし、「うつ病に効能あり」として認可された。こういうケースなどは、今後TPPが締結されれば日本での臨床試験は省略されるだろうから、アメリカの製薬会社のやりたい放題になるだろう。また、別の例を挙げれば、最近では、薬の使用法に医師の「さじ加減」を認めない、「ガイドラインに基づいた」「標準化された」治療の弊害が顕著となってきている。例えば、今年日本で認可された認知症の進行予防薬では、用量が欧米と同じ量に設定されており、日本の小柄なお年寄りが服用するとかなりの率で副作用が生じる。発売後3ヶ月した時、現実の臨床状況では発売前の臨床試験での副作用発現率の数倍もの副作用が出ました、との報告が製薬会社から出てきた時には、私も自分の処方経験から公表前からわかっていたことだがさすがに呆れた。それでもまだなお、この薬には、「標準的な使用量(つまり、体重が30kgのおばあちゃんにも大きな欧米人と同じ容量を投与する)まで増量して使用していくこと」が処方条件となっている。そうしないと健康保険で認められない(結局、処方する医師が月1~2万円もの高価な薬剤代を負担する。患者さんからは千円程度いただくだけだ。儲かるのは製薬会社と調剤薬局だけだ。)。また、現在、厚労省の方では、日本の精神科医は薬剤の種類を出し過ぎる、との理屈で、薬剤数を規制しようという動きがある。これも、結果的には欧米の製薬会社がこの10年余リードしている高価な抗うつ薬を処方するように誘導するだけになりそうだ(どうしても日本には、官僚や学者さんの一部に、欧米の製薬企業を利するように働く人たちがいる。)。個々の患者さんの状態に合わせた「さじ加減」医療は認めない傾向が加速しそうだ。来年以降、医師だけでなく、患者さんの不利益も急拡大しそうだ。
最近は製薬会社の営業マン(MR)も、アメリカのように 「グローバルスタンダード」を錦の御旗に掲げて、宣伝活動をしてくる。彼らは「ガイドライン」の宣伝に一生懸命だ。「ガイドライン」に沿った治療をしないと患者さんのためにならないとか、患者さんから訴えられますよ、といった理屈で押してくる。同じく「うつ病」の診断になる患者さんも、個々の病状は大きく違い、薬物への感受性も大きく違う(例えば、体格が同じ人が同じ量の薬物を飲んでも脳内の薬物量は数倍違ったりする証拠はたくさんある)という事実は全く無視した「治療ガイドライン」に従えと言うのだ。
先日、ある日本の製薬会社が勝手に「抗うつ薬の処方選択についてのアンケート」なる、医師や患者さんに何の益も無い自社のPR活動のためだけのアンケートを送りつけきて、数日したら「アンケートは書けましたか、回収に行きますので。」と一方的に催促してくる、不躾な輩がいた(残念ながら、欧米開発の薬を代行販売して薄利を得るディーラーと化した日本の大製薬会社のMRだ)。最近のMRさんたちを見ていると、マクドナルド的なマニュアル営業活動が本当に目立つ。会社も会社で、単に医師への訪問回数や売り上げを数字だけで評価し、個々のMRが現場の医師や患者さんの声を適切に拾ってくることは重視しないようだ。昔の町の大工さんのように、家を建てた後でもお客さんの生の声を聞きに伺って、自分の製品の出来具合を見直すような形になれないのだろうか。MRさんたちも、こんな会社の非人間的なシステムの被害者になっている面もあるだろうが、こんな意味のないマニュアル仕事をしていて果たして労働の意義を感じられるのだろうか。
しかし、私がこんな愚痴を言っていること自体、時代遅れなのだろう。アメリカ政府は、航空機やコンピューター産業などと同じく自国の強みである製薬企業の利益を守るべく、産官学の共同で「治療ガイドライン」などを作って、現場の医師がそれに従わざるを得ない体制を強めてくるのだろう。極東のマイノリティとも言える、私の所に来る患者さんの個別の状態は無視されるような、非人間的医療が推し進められるのだろう。そうすれば、患者さんは今以上に息苦しくなって怒る。しかし、その怒りはアメリカや製薬企業や厚労省に向けてではなく、我々現場の医師や地域の医療・福祉の窓口に向かってくるのだろう。
「アメリカ・システム」が実は、「世界標準」でも「公正」でも何でもないことは、いろいろなところで指摘されている。エマニュエル・トッドは、著書『帝国以後』で既に10年前にアメリカ・システムが崩壊に入ったと喝破した。今やアメリカは経済的には世界に依存するしかない状態であり(だからこそ今のTPP交渉だと私は思う)、帝国の末期症状として、それまでの普遍・自由主義を制限して、民族差別(イスラム圏の人たちへの差別)を始めたため、政治的求心力も低下したとトッドは言う。このように、アメリカの政治経済の屋台骨がぐらついてきた状況下、日本はこれまでのお得意であった処世術「長いものには巻かれろ」で対応できるのだろうか。この40年で世界人口は倍加して70億人になり、発展途上国とされた国々の識字率や教育水準も急速に向上し、新次元の時代に入っている未曽有のこの時代に、新機軸の政策につき、熟考することが必要ではないか。
日米安保闘争の時よりも、ずっと大きな国家的分岐点に差しかかった状況にあるように思うが、あの時と違って全く静かな日本だ。危機感を感じている日本人はどのくらいいるのだろうか。「後の祭り」にならないように祈るばかりだが。