私が尊敬する大先輩である、精神科開業医のK先生は、関西人らしく冗談を交えて話すことも多いが、時に本質的なことを小さい声でぼやくように言われることがあった。「僕ら(精神科医)は、患者さんに親切はあげられるけど愛はあげられないね。」とか「人の悩み(の解決や緩和)でお金をもらう僕らの仕事なんて良くないね。美味しいもの作って喜ばれる料理人みたいな仕事が良かったな。」など、いくつかの先生のお言葉がその時の情景と共に今も私の耳に残っている。
このほど、クラインマンらによる『他者の苦しみへの責任』(みすず書房)を読んで、K先生のことを思い出すことが多かった。
この本は、たくさんの論者が種々の問題を扱った論文集だ(邦訳はその抄訳となっている)。飢餓に苦しむ人をカメラに写すジャーナリズムの倫理的問題、貧困にあえぐハイチの人たちに蔓延するAIDSを通して見る構造的問題、日米の「脳死」受容過程の違い、などを扱っていて、一読してさて何の共通テーマがあるかわかりにくい本だ。しかし、そのわかりにくさを補うに、池澤夏樹氏の秀逸であり示唆に富む解説は余りあるものだ。池澤氏の文章だけでも読む価値があると思う。
この本の中の一つの論文では、アメリカの医師、ポール・ファーマーによって、ハイチの貧困層の悲惨な状況が描かれている。ファーマーは、この論文の中で、病気や貧困など、世の中には様々な苦しみがあるが、苦しみには程度の違いがあり、苦しみの大きいものと小さなものを「トリアージ」(救急救命医が目の前のたくさんの患者から、すぐに自分が治療する必要がある人を見分けることを表すのによく使われる言葉)する必要について説く。彼の主張では、トリアージの最高ランクの苦悩は貧困問題である。
実は、この点がこの論文集の編者のクラインマン氏との違いの決定的なところである。クラインマンは、一人一人の苦悩には異なる状態とその背景があり、苦悩の度合の評価には、トリアージという考え方や、苦悩の点数化とは馴染まないとしている。
現実には我々が何か善いことをなそうにも、身は一つしかないし、時間や技能の違いなど諸条件が違いすぎる。実践家ならば、クラインマンのいう理屈もファーマーの主張もそれぞれにわかる所があるだろう。生きること、働くことの矛盾はいつも我々の目の前にある。この点に関し、同書の中の池澤氏の言葉を引用したい。「たとえば、宮澤賢治が『世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない』と言う。これはまことに美しい標語だが、現実にはちょっと飛びすぎだと思う。普段の生活でいつも世界ぜんたいの幸福を考えているわけにはいかない。いわばこれは幸福に関する原理主義であり、それゆえに標語以上の効果が期待できない。」、「ある意味で、彼(引用者注;ファーマーのこと)は医師としてぎりぎりの立場に追い込まれている。患者AとBとCのうちの一人しか助けられない状況においてその一人を選ばなければならない場所、災害の現場などで使われるトリアージという言葉が日常化している場所に立っている。明日、カンジュで患者を診るべきか、アメリカあるいはキューバに行って資金援助の交渉をすべきか、または自分の能力と経験を若い医師たちに伝えるべくどこか世界の他の地に飛ぶか、本書に収められたような論文を書くか、そういう日々の選択がたくさんの人々の生命につながっている。彼は追い込まれたのではなくそういう立場に自分を追い込んだのであり、むしろそれを活力としているのだ。」池澤氏はファーマーを聖人だと断言する。
私は、ファーマー医師のことで、K先生を思い出した。K先生は、ご自身が幼い時は町医者はほとんど全て「◯◯医院」と標榜していたし、特定診療科の標榜だけでは全人的な医療はできないとの考え方から、「◯◯クリニック」などのカタカナ、地名や「やすらぎ」などの言葉を入れた医院名が流行っているこの時代にあえて「K医院」と標榜している。K先生は、まさに理念と看板に齟齬のない、誠実な診療をしておられる。専門の精神医療の技術に優れているK先生は、身体診察の技術にも優れている(身体のことは単純なことでも「わからない」とさじを投げて普段から勉強もしない精神科医は多い。)。私が見たところ、K先生の近辺の内科開業医よりも、問診による身体疾患の鑑別技術に優れていた。たとえ内科医が「諸検査で異常はないので精神科で診てもらって」とK先生の診療所に紹介されてきても、「これは脳に腫瘍がありそう」とか「電解質バランスがおかしそう」などの当たりをつけることができて、実際に調べてみると体の病気が見つかった、というケースはいくつもあった。患者さんの風貌や病歴聴取についての先生の表現、紹介状のきめ細かさからも、K先生が一般に見落としがちだが大事な細部をよく見ておられるのがよくわかった。
K先生は、ケースワークについてもご自身が動いてきめ細かくなさっており、例えば老人の患者についてケアマネージャーとこまめに連絡を取り合い、FAXや手紙でたくさんのやりとりをしていた。病院に勤めていた私のところにもきれいな字でたくさんの文章で御連絡を下さるのが常であった。こうした行為は今の医療制度では全くと言っていいほど評価されず、お金にはならない。それでも労働時間は増え続けるばかりである。先生は、診療を夜9時までなさってその後にそうした書類をたくさん書かれ、帰宅はかなり遅くなるのが常であった。私は、K先生の患者さんに対する、「親切」を超えた「愛」を何度も感じた。先生はそうした状況でも時間を作って我々後輩の指導に来てくださった。遅い時間に我々に指導を下さった日の帰り道に先生が車で自損事故を起こしたと聞いた時には本当に肝を冷やした。同僚医師は、K先生のことを畏敬の念を持って、「修行僧のようだ」と評した。池澤氏の表現を使えば、聖人と言っていい人だと思う。
先の池澤氏の解説の中では、「われわれは聖人である彼を真似ることはできない。しかし、少なくとも彼を知ることはできるし、その言葉に耳を傾けることはできる。」とあった。私のK先生に対する思いも似ている。ただ、K先生がこんなことを聞いたら、「関西では『お客様は神様』だから私も商売人と同じように医療の場ではそう振舞っているだけだよ。」などと関西風に冗談めかして返されそうな気がする。