古典的な名言、ことわざや警句とされている表現の中には、誤解されていることが時々ある。例えば、「エビで鯛を釣る」は、大きな利益を得るにはそれなりの元手が必要、と誤解される。この例ならば誤解でもそれなりの意味はあるし、大きな問題はないだろう。それでは、西洋のことわざ「沈黙は金なり」、はどうであろうか。西洋にも「口は災いの元」、「巧言令色少なし仁」と同じ意味合いのことわざがある、西洋人も日本的価値観を共有する、と誤解したら時には大きな齟齬を生むだろう。「沈黙は金」はそもそも、「雄弁は銀、沈黙は金」のことわざの一部で、「沈黙は金」の方は後世になって付け加えられた言葉だそうだ。しかも、当時は金より銀の方が価値があるとされていた(日本でも江戸期までそうであった)から、「雄弁」の方が「沈黙」よりも尊いものとされていたのだ。さらに「雄弁は銀」については、もっと時代を遡って、旧約聖書までさかのぼるらしい。「清き言葉は銀の価値がある」という意味の言葉が旧約のどこかに書いてある(原典忘れました。すみません。)。西洋の昔の人は雄弁に価値を置いてきた。古代ギリシャやローマ帝国の政治家にはたくさんの雄弁家が出てくるし、イエスなどはその極め付けだろう。
私の専門領域でも、今やことわざ的に言われることの一つとして、「真面目な人がうつ(病)になる」というフレーズがある。今や先進国では誰もがうつ病になり得る時代であり、特に「真面目」だからうつ病になるわけではないし、そもそも「真面目」という人柄についての価値判断(価値判断は時代によってすぐに変わる。つい先日まで「縁の下の力持ち」と言われた人が、今や「自分の考えを持たない」と批判されるようになった。)と精神疾患には直接の関係はない。しかし、精神科医や臨床心理士といった専門家の中にもこのような単純なフレーズを無邪気に信じて金科玉条のようにしている人がいるので不思議である。そういう人が時に、「自分もうつ病になったことがある」と公言することもある。それは、自分も「真面目」」な善良な人間だと言っているようなもので、聞いていて恥ずかしくとも別に害はないのだが、彼らが目の前に来たうつ状態の患者さんを見たら反射的に「真面目」と考えるようでは治療の方向性を大きく見誤ってしまう。それでは「真面目」でない、うつ状態の患者さんを見たら、「うつ病ではない」と判断してしまうのだ。かくいう私も、かつてそういう間違いを犯したことはある。「心」に関する仕事をしていると、時には価値観と価値観のぶつかり合いの局面になることがあり自分の価値基準が揺り動かされるところがある。いったんは自分の価値観はさておいて、現象を素直に見ることは、意外に訓練の要ることである(センスのある人は始めから問題にならないのだろうが)。
専門家ならば、「真面目な人がうつになる」の歴史的背景は知っておかなければならない。古来より、うつ病に相当する病態は、「メランコリー」を初めとして、いくつもあった。それを「うつ病」という疾患単位としてまとめたのがクレペリン(1856-1926)というドイツ人である。彼が「うつ病」を定義した時は、「真面目」という基準は無かった。彼は、その当時の哲学・心理学でで心の要素とされた、「知」「情」「意」の三要素に分けて、価値観は抜きで病態を記述した。その後、第二次世界大戦を経て、敗戦国ドイツ(当時は西ドイツ)が経済成長の軌道に乗ってきた頃に、「人間学的精神医学」が興隆する。その時に、「真面目な人がうつ病になる」の原型となる考え方がまとまってくる。それを大まかにいえば次のようになる。
「ある人間が、生来の弱さをもって生まれてくる。彼は自分で自分の行動を選択して人生の意味や価値を模索していく強さがないため、、『大いなるもの』、例えば幼少時には親の信じる価値観、学童期以降は世の中の価値観、社会ルールや道徳について、それを『真面目』に守ることに一生懸命になる。そうすることで、『守られている』感覚を無意識的に持つ。会社に入れば、身を粉にして組織に対して貢献する、企業人となる。彼が元気な時は、所属組織が安定し、自分の上司ら、言い換えれば自分の幼少期の親の立場に当たる人たちに評価される時である。その時は、多少の過労があったって病気にはならない。しかし、ある時昇進して、自分が判断・指導していく立場になった時や、組織のあり方が変わるとき(年功序列システムが崩れるなど)に、『大いなるもの』の庇護を喪失した形になり、うつ病を発症する。」
こういった考え方である。元々の個体としての素質(専門的にはメランコリー親和体質と言われる)と、その素質の長短所、社会背景との関係が見事に描かれており、説得力のある説明である。ただ、この説も、それが出てきた歴史社会的背景を知らないと大きく誤ってしまう。
精神医学の素養がなくとも勘の良い方ならわかるように、この説は、今はやりの言葉で言えば、「ガラパゴス」的な説明である。戦後の高度経済成長をとげる時期の日本と西ドイツ、という、世界でも局所・限定された時代と国でのみ、支持されてきた説である。「社員は家族」と某社の社長が言っていたあの時代、努力すれば評価される、そうすれば会社は発展し、国も発展する、という大物語が信じられていた、日本と西ドイツにおいて生じた現象である。滅私奉公的に組織に貢献するなんて、自由主義・核家族化の進んでいたアメリカではありえない生き方だっただろうし(だからこそ当時のJFケネディは「国のために何ができるか」を強調したのだろう。)、アフリカや東南アジアで、こんな「真面目」な人がたくさんいたとは想像しにくい(もちろん、日本や西ドイツがこれらの国より「真面目」で立派だとかいう話ではない)。
先日、当院内の勉強会で、この「人間学的精神医学」の一派の文献の原典(といっても優れた邦訳で)を読んでみて話し合った。「ガラパゴス」的な説ではあるが、トータルに人間を見ていく良さがあり、最近はやりの、精神疾患の遺伝子研究や、うつ病の人の認知の歪みがどうだとかいう心理学的研究などに比べると、「人間学的精神医学」はガラパゴス的であっても、人間への鋭い洞察が含まれており、現在の錯綜した臨床状況に対してかえって応用が利くのではないか、などと議論された。キリストだって、あの時代の辺境にあって少数派の中のさらに変人であったが、これだけの普遍性を持つことになった。局地的であることは、普遍性や応用性を持たないこととは別の話である。
細かく書くと話は終わらなくなってしまうが、物事の原点・言説の原典に当たる必要性は、「情報化社会」の中で私自身も忘れがちになるので、自分自身への戒めとしたい。