<メルマガより>
社交不安障害(social anxiety disorder、略してSAD)という
病気があります。
この障害、SADを持つ方は、
人前で恥ずかしい思いをするかもしれない場面をひどく恐れます。
たとえば、人前でのスピーチ、人前での食事・電話・書字などです。
俗に言う「あがり症」の強いものですが、
症状の重い人はほとんど外出できずに引きこもり、
親族の冠婚葬祭にさえ出席できないなど、生活の支障が大きいのです。
職場で電話する、客にお茶を出す、という特定の場面だけにしか
支障がない軽症のSADの人も多いのですが、
軽症の人でも重症のSADの人でも、その恐怖する場面を想像するか、
もしくは過去に人前で失敗した場面を思い出すと、
恐怖感から声がうわずったり、汗ばんだり、体を縮めこんだりします。
恥をかいた記憶が突然、その光景が生々しく、目の前に現れます。
このように、SADの症状は、PTSDの症状と同じく、
フラッシュバックが生じたり、恐怖場面を回避したり、
自律神経の症状が生じたりします。
パニックや抑うつ症状、アルコールや薬物依存の合併が多いことや、
恐怖場面を回避し続けて自然治癒することはほとんどないのも
SADとPTSDに共通します。
また、その治療においても、薬物ではSSRIが有効だし、
行動療法、中でも暴露療法(恐怖場面を避けず、少しずつ慣れていく)
が有効です。
特殊な治療法ですが、EMDRという、一見催眠術のような特殊治療も
SAD・PTSDともに有効です。
臨床現場では、SADの人も、
過去に恥をかいた場面を「トラウマ」と呼ぶことがよくあります。
恥をかく場面がすべてトラウマにはなりませんが、
トラウマにはなり得ます。
(レイプ被害が周囲に知れて被害者が「恥」と感じることを
想像してみればわかるでしょう)
このように、SADとPTSDには似たところが多く、
まったく同じ病態とは言えなくても、
近縁の疾患と考えた方が良いと思うのですが、
昨年改訂された診断基準DSM第5版では、
第4版まではSADと同じく「不安障害」に分類されていたPTSDを
別の分類にしました。
(その理由について私は詳しく知りませんが、私見では、
学問的な事情ではなく、政治的な事情だと思っています。
またの機会に触れたいと思います。)
その分類基準の背景には、
SADの人が「トラウマ」となった「恥」の体験は
病者本人が自分で作り出したもの
(言い換えれば、自然災害や、他者が害を加えた結果ではない)
であり、
PTSDのトラウマの場合は、天災・人災の結果である、
という考え方があると思われます。
言わば、生まれ持った弱さから生じるのがSADで、
運悪く受けた災難から生じるのがPTSDだという考え方です。
これは単純な二分法であり、後に述べるように、間違っています。
しかし、一般の人にはわかりやすく、
災害や犯罪被害の補償問題などの議論では
「トラウマ」を申告する人に対して手当や補償を施す際に
どうしても線引きする必要があるので
(賠償金、障害年金、医療費負担など)、
こうした二分法をとってしまうのです。
SADについて言えば、
日本ではつい先日まで「対人恐怖症」という病名で呼ばれていました。
対人恐怖症は、SADの病態を含むより大きな疾患群なのですが、
ここでは同義に捉えてもらって良いと思います。
対人恐怖症の病理の考察とその独特な治療法で有名なのが、
大正から昭和にかけて活躍した精神科医、森田正馬です。
森田正馬は「森田療法」として、
今で言うSADやパニック障害、当時は「不安神経症」と呼ばれた
病気を治療していました。
森田は、対人恐怖症の病理につき、
DSMのように「本人の体質・素質」か「トラウマやストレス」か、
という二分法で考えることはしませんでした。
森田が考えた対人恐怖症の病理では、
一過性に生じた悲しみや不安などの感情が続きやすい体質、
つまり、ネガティブな気分の切り替えがしにくい気質(神経質)を
生まれ持ったものと考えます。
ただ、その体質を持って生まれた「神経質」な人が全て
対人恐怖症を発症する訳ではなく、
そういう体質の人がたまたま人前で大恥をかくという体験、
今で言うトラウマ的な出来事が起きることを発症の条件と見ます。
ここまでは、「体質要因」×「トラウマ的出来事」という、
DSM的な二分法ですが、森田はそれに加え、
対人恐怖症の発症要因として、患者の性格因を重視します。
それは、「負け惜しみの意地っ張り根性」と表現されます。
つまり、対人恐怖症の患者は、神経質な体質なので、
社交場面で「恥ずかしい」と感じやすいのですが、
そういう自分を「ふがいない」と考えて
(つまり生得の体質、弱さを認めない「負け惜しみ」)
自分は「恥ずかしがらないようになりたい、なるべき」と考えます
(つまり「意地っ張り」になる)。
しかし、そのように考えることにより、
逆にちょっとした人前での当惑や緊張が気になって仕方なくなり、
対人恐怖症の赤面や震えや発汗などの症状が強まってしまう、
そのためにまた自分を「ふがいない」と考えて・・・(以下同上)、
という悪循環に陥るのです
(森田は「とらわれ」の病理と表現します)。
このような森田の考えに沿って考えると、
対人恐怖症では、神経質という生まれ持った体質や、
人前で恥をかいたというトラウマ的な体験よりも、
病者の性格・症状の捉え方の問題が大きな発症要因、と言えます。
私の臨床の実感からしても、もちろん個々にそれぞれ違いますが、
SADやパニック障害の患者さんについては、
森田の考え方がしっくりくるケースが多いように思えます。
病気の原因はさておいても、その治療においては、
上記のように症状にとらわれて悪循環に陥っている構図を
治療者が頭に置いておくこと、そして、
タイミングを見て患者さんにもその悪循環を知っていただくこと、
が大事だと思います。
現代に問題になっているトラウマやPTSDについても、
森田ならば、発症の原因となったトラウマ的出来事よりも、
「負け惜しみ」「意地っ張り」「とらわれ」という
性格や考え方の病理を重視することでしょう。
実際、私たちの臨床現場では、
一昔前なら「恥をかいた」と表現されたであろうことを
「トラウマ」と表現する人が多くいます。
そういう人たちの中に、プライドが高すぎたり、
自己顕示欲が強すぎたりして、自分の弱さを認めようとしない、
「負け惜しみ」「意地っ張り」が極端な人を時々認めます。
そういう人は年々増えている印象です。
逆に言えば、等身大の自分を大きく越えた過剰な自己像を
心の中に持ち続けている人が、その自尊心を少しでも傷つけられると
「トラウマ」となる、もっと言えば、
過剰な自尊心を持っている人がトラウマを負いやすい、
と思います。
このような文脈で「トラウマ」の用語を使うのは間違いである、
と、本当のPTSDの患者さんや専門家に怒られそうですが、
臨床の現状からするとどうしてもこのように思えるのです。
ここは大変微妙な問題をはらんでいて、説明が難しいところですが、
今回のお話を踏まえて、次回にあらためてお話ししたいと思います。