岡野憲一郎著『恥と「自己愛トラウマ」』を読んだ。この本の分量だけ見れば小著であるが、内容的には実に大きな問題提起をしている。精神科医が一般向けに書いた本で、意味の無い自作の用語を使って書く、実は何の内容の無いものはあまりにも多いが、この本は違う。著者が言う「自己愛トラウマ」の意味するところを理解すれば、問題の大きさ、根深さがわかると思う。
まず始めに、私たちがなぜ「怒る」のか。古くて新しい問いであるが、昨今の精神分析的・脳科学的知見を援用しながら岡野は説明する。私たちは、自分の身が危険にさらされた時、例えば自分の命や財産が奪われそうになった時に、自己防衛反応として当然なこととして怒る。これは、魚でも自分のテリトリーがあってそこに入ってくる別の魚に攻撃するという、生物学的に見て本能的な反応に由来している。しかし、人間においては、そのテリトリーは肥大し、「自己」の範囲は拡大している。例えば、満員電車で足を踏まれた人が過剰に怒る場合がある。大して痛くもないのに過剰に相手に咬みつく人がいる。その怒りは、自己保存するための本能としては説明できない。動物なら、くだらないことに怒ってエネルギーを消耗するよりもエサを探しに出かけた方が得策なのだ。しかし、人間では、「プライド」があり、ちょっと足を踏まれただけでも「自分の存在を無視された」と感じる場合があり、その時に感じるのが「自己愛的な憤りnarcissistic rage」である。この憤りは、「自分のプライドが傷ついたことによる心の痛み」から生じる。この時の「心の痛み」を岡野は「自己愛トラウマ」と呼ぶ。
「自己愛トラウマ」などという表現を聞けば、PTSDなど、トラウマによる症状に苦しんでいる人たちからたくさんの反発がありそうだ。「電車の中で軽く足を踏まれたことがトラウマだって? 私たちの受けたトラウマはそんな軽々しいものじゃない」といった反応は予想される。それは当然岡野も想定していると私は思う。ただ、この微妙だが大事なところがこの本では若干説明不足なところがあり、誤解に基づく感情的な強い反発がありそうだ。この点に関しては、例えば自分が怒った時のことを思い返してみて、くだらないことに怒った経験について自分の心の動きの経緯を深く内省できる人、もしくは自分勝手な「自己愛型人格」の人に振り回された被害経験がある人にはわかるところが多いと思うが、幸いにして自分も周囲も精神的に健全な人ばかりで生活してきた、という人(30歳以上でそんな人がいればよほど社会経験が乏しい人だろう。それは嫌味ではなく幸運なことであると思うが。)にはわかりにくいところである。
岡野の説明では、あやうく殺されそうになった時に感じる怒り(自己防衛のための正当な怒り)も、電車でちょっと足を踏まれた時の怒り(自己愛が肥大したための怒り)も、怒りを感じている当の本人にとっては同じ怒りであり、少なくとも本人には区別できない点において、それらは体験としては「同じ」と言える(岡野は言及していないが、「同じ」脳の変化が生じているという意味合いもあるだろう。)。その考え方の延長として、本当に殺されそうになった体験も、ただ軽く足を踏まれた体験も、本人の側には「トラウマ」という心的外傷体験となる。もっと言えば、特に自己愛が肥大化していない人が殺されそうになった後にPTSDになっても、勝手な自己愛を肥大化させた人間がちょっとしたことで「恥をかかされた」と思う体験を経てPTSDになっても、病理としては同じPTSDだと言うのだ。これは、「自己愛トラウマ」が、これまで一般に「トラウマ」とされてきた体験や心の現象を包含する、という、一見とんでもない理論である。だが、私にはその真実味がわかり、日々の臨床でも実感するところである。ただ、私の臨床実感からすると、この話はとんでもなく深く、精神科臨床実践だけでなく、医療体制や司法に関する大問題をもはらんでいる話であり、慎重に議論したい。それだけに、稿を改めて論じていきたいと思う。