「心を診る」医者として、実名でブログを書きながら、ためらうことが度々ある。自分の書いたことが、患者さんの不安を煽らないか、気になる。最近の風潮では、ネットで滅茶苦茶なことを書き立てる人が多くおり、そういう人間の被害に遭った人が患者さんとして受診される。また、最近のマスメディアは「不安産業」化しているため、「犯罪の増加」「中国の脅威」「年金破綻」など、やたらと不安を煽るニュースも多く、「気分が悪くなるからテレビのニュースが見られない」と訴える患者さんも多い(猟奇的な犯罪のニュースの後に贅沢品のCMを流すと効果的だという調査結果もある。そういうメディア側の戦略を知っておくことは一つの防衛にはなるだろう。)。そういった患者さんたちに私が書いたことが不安を与えなければ、という思いはいつも念頭にある(つもりだ)。
当院での診察の時に、「先生、(ブログで)結構言いたい放題ですね。」と微笑を浮かべて感想を下さる人がいらっしゃった。その人が背後に抱えたてい大きな問題を知っているだけに、本当に頭が下がった。実際に会える患者さんならば私の言葉のニュアンスがわかっていただけるのでまだ助かるが、こんな私の駄文を読まれる、見たこともない人がどう受け取られるのか。その人の心に悪影響を与えないことだけは祈る。コミュニケーションの大部分は無意識レベルだと言われる。そんなことを考え出すと、文字だけで真意を伝えることは本当に難しい芸当だと思う。
本当は、こんなところで暗い話など書きたくないのだ。好きな映画や音楽の話でも適当に書いている方が余程いいのかも、と何度思ったことだろうか。でも、そんなことは中高生でもみんな書いている。世の中の酸いも甘いもある程度わかった中年のおじさんが恥ずかしげもなく書くべきことではないと思う。私個人の嗜好を書き連ねたところで、たまたま目にした人に不快感を与えるだけでは申し訳ないと思う。
それでも、暗い話でも目を背けてはいけないことがある。その一つとして今回は、「パチンコ依存症」を取り上げたい。
パチンコ発祥の地と言われる名古屋の下町で育った私には、パチンコ店は今のコンビニのようにどこにでもある、「ご近所のお店」であった。パチンコ店は小さな商店街の入り口にあったかと思えば出口にもあった。友達の両親は夜にパチンコ店に行ったきりで子どもたちをほったらかしであった。小学生の私は友達と一緒にその親たちをパチンコ店に「迎えに行く」ことを何度かした。まだ昭和時代の鷹揚な雰囲気であったから、夜のパチンコ店に小学生が入っても注意を受けた覚えがない。おそらくその当時から、最近の事件で話題になっているように、パチンコに夢中になっていて車に幼い子どもを置き去りにしていた、という事例はいくらでもあっただろうと思うが、それでも今のように取り上げられなかっただけだと思う。
あの頃のパチンコ店の風景はよく覚えている。阿片窟のようにタバコの煙が立ち込め、その紫煙の中で大の大人が歓喜の声をあげたり悪態をついたり、であった。子どもの目から見ても正直、醜かった。何がそんなに面白いのかと彼らの目の先を追ってみると、指でパチパチと同じ動作を繰り返して盤の上から落ちる銀玉しか見えない。それは、器用さを生かせるようなゲームでもない。繰り返すことで上達するような競技でもない。レジャーセンターにあったコイン落としゲーム機の方が、もしくは後に出てくるインベーダーゲームの方がパチンコなんぞより余程面白いと思われた。
中学生の頃には、近所のパチンコ依存症だったおばさんにパチンコの魅力を聞いてみたが、「玉がザーと出てくる時に頭の中にサーと気持ちいいシャワーを浴びるような感覚なんだわね。」とのことであった。生活費をかけているというスリル、それを失う恐怖から解放された時の歓喜。当時の私にはおぼろげにしかわかっていなかったが、精神科臨床をしながらアルコール依存を始めいろいろな依存症者を見てきて、依存症者の心理がよりよくわかってきた。
それは実に、原理的には結構簡単な仕掛けである。期待と恐怖、緊張を入り混じらせてある程度の時間、相手をじらせた後に、その恐怖や緊張から解放された刹那の快楽が得られると強烈な快感が生まれる。元々の不安や恐怖が強ければ強いほど、その後に与えられたわずかな報酬が最高のものに思える。先に投資していた金銭に比べてずっと少ない報酬でも、心理的には大きな利益が得られたと感じる。そういう原理でいくと、パチンコでは先に多額のお金を相手に握られている(高額なお金をタダ同然の価値しかない鉛玉であるパチンコ玉に替えるという行為自体が、自らの命を相手にそのまま預けるような行為だ)、という拘束状況が必要なのだ。そして、そのお金が、生活を左右する程度の大きさであることが大事だ(大金持ちはパチンコ依存にはならない。逆に、負けても数百円程度では誰もパチンコ遊戯に魅力を感じないのだ。)。
もちろん、パチンコ店に入る人は、自分の生活を左右するお金を賭ている自覚はある。子どもを置き去りにしている罪悪感もある。早くたくさん稼いで子どもたちの元に帰らないと、という意識もある。家計はどうなるか、子どもたちは大丈夫だろうか、という不安は彼らの心の片隅にでも必ずある。私の幼少期の友達の親御さんも、時には子どもをほったらかしにしながらも、善良な人たちであった。素朴で飾らず、地域との交流を大事にし、奉仕活動をして、近所に住む貧乏人の子どもであった私にどれだけ優しくしてくれたか、全ては思い出せないくらいだ。
精神医学では、「ストックホルム症候群」という現象が言われる。これは、人質立てこもり事件のような拉致監禁事件の被害者が、監禁状態から解放された後になって自分を拉致監禁した当の犯人に好意を寄せ、解放後も犯人に有利な証言をしたり犯人に恋愛感情を抱く、という、一見奇妙な現象だ。そういう現象は、男女関係において長期間軟禁されるようにして奴隷のように扱われていた人に見られるし、小中学生のイジメの関係の中にも見られる。
パチンコにはまっている依存症の人は、ある面ストックホルム症候群の人と似ていると思う。パチンコ依存症とストックホルム症候群の人では、自分で危うい場所に入っていったか、自分の意思に反して強制的に危険な状況に置かれたか、という入り口の違いはあるものの、その後の構図は同じである。今この場の自分の動き、それ以上に命を預けた相手の考え一つに自分の命がかかっている、という自覚を持ちながら、その場を出られない。無事にその場を出られたらその開放感は至極の快感になる。そして、危険な場所から解放された人は、解放してくれた相手、それはパチンコ店と人質事件の犯人という違いはあるものの、彼らを愛するようになり、再びその危険な相手に接近してしまうのだ。
果たしてこれは、一部の病的な人達にだけ当てはまる現象だろうか。私にはそう思われない。極論かもしれないが、日本国民の多くが「ストックホルム症候群」的な心理状態になっている、と思う。阿部政権は中国や朝鮮半島の脅威を過剰に強調し、このままでは日本は侵略されかねないとの不安を与えながら、また、輸出産業を中心とする大企業に対する保護的政策を打たなければ日本の雇用は減少する、皆さんの就職先は無くなりますよ、として国民を脅しながら、「特定秘密保護法」「集団的自衛権」「法人税減税」「消費税増税」など、庶民には負担を強いるばかりの法律を矢継ぎ早に決めるが、国民の多くは黙認どころか賛成する。冷戦時代と違ってずいぶん中国寄りになってきたアメリカの、文字通り尖兵になるという、「集団的自衛権」閣議決定など、日本の安全にどのくらい利益があるかどうかもわからない(少なくとも負担に見合う対価があるの怪しい)、そんな政策を支持する。また、空前の金融緩和政策により日本円の価値を下げ、物価を上昇させ、それに増税分を加えた金額よりもずっと少ない給与ベースアップをいただくだけで庶民は諸手を挙げて歓喜する(増前後の今でも百貨店には人が押し寄せ続け、この夏の旅行者数も史上最大規模の人数らしい)。どう考えても合理的な判断や行動とは思えない。「失われた15年」だか何だか知らないが、半分はマスメディアが作ったイメージによる「閉塞感」から解放されたようにして踊り狂う国民が、バブル期ほどではなくとも結構な割合でいるように思う。「ストックホルム症候群」と同じく、拘束された後のささやかな解放感、もしくは、負けるとわかっていながらも一時的に少ない報酬が与えられる(ちょっとだけ玉が出てくるパチンコ台のように)と狂喜乱舞するギャンブル依存症者のように、私たちは阿部政権を支持するどころか愛してはいないだろうか。私たちは、立憲民主主義の国にありながらも奴隷根性に堕ちてしまっている事実に目を背けてはならないと思う。