その場所は、今や駅ビルとしては世界一の高さだいう名古屋駅から歩いて15分もかからないところにある。今でこそ洒落た映画館や豪華な私立大学の校舎が立ち並ぶが、私が小学校に入学した昭和50年当時は、戦後のバラック小屋が立ち並ぶ地域であった。お世辞にもハイソな地域ではなかった。名鉄の線路は、ただ土を盛っただけの土手の上にあり、その土手の斜面には、トタン板だけで組み立てられたバラック小屋が密集していた。当然、電気もトイレも水道も無い小屋だった。その地域に、子どもが住んでいた。どうも学校には行っていないようだった。幼心の私にも不思議だった。当時、その地域から名古屋駅方向を望めば、生命保険会社が建てた高層ビルが2塔並んでいた。その対照的な光景は、幼い私にも異様な印象を与えた。その地域のそば、国鉄の貨物駅 には、今のように外部と隔てるフェンスは無く、その敷地内には簡単に入ることができた。日曜の朝に家族で線路の上を散歩したのは楽しい記憶だ。映画『スタンド・バイ・ミー』の子どもたちのようなワクワク感を感じていた。当時の国鉄は今のJRと違って、良い意味で言えば鷹揚だった。新幹線だけは立派な擁壁の上にあり、その線路に子どもが入る隙もなかったが、在来線、中でも貨物駅なんぞはいい加減な構造だった。線路に入って列車に轢かれて死んだ子どももいたはずだが、あの当時ならば大したニュースにならなかっただろう。今の3倍以上も交通事故死者がいた時代だ。私も兄弟も大きな交通事故に遭ったことがある。
あれからの日本は経済的には豊かになるばかりで、間も無くあのバラック小屋は消えた。名鉄の線路の基礎は、土手からコンクリートの擁壁に変わった。それでも私は、あのバラック小屋を忘れることはない。私の原光景の一つになっている。後の1980年代、私が高校生になり、社会科の授業で生活保護法の歴史、例えば朝日訴訟のことなどを知り、生活保護法の制定から25年も経ってあのバラック小屋が存在していたとわかり、改めて驚いた。当時、自分の家庭も生活保護を受けるようになっていたが、自分が高校に進学できたことにはありがたさを感じた。最低限の生活がちゃんと保証されるというこの国の制度は本当に素晴らしい、良い時代に生まれた、と思った(しかし、その後に医師になった私は、バブル後の1990年代になっても、あのバラック小屋の環境のように、いや、それ以上に悲惨な生活環境の精神病棟が全国にいくつもあることを知った。実際に私もそういう場所で働いた。「豊かなバブル時代」で社会全体を一括りする評論家的表現の乱暴さを、身に沁みてわかった。)。
蒸気機関車の話から「脱線」してしまった。本線に戻りたい。
今回のSLを観にきていた人たちは、テレビ局並みの撮影器具を持った、いかにも鉄道マニア、という人も多かったが、そうでもない人たちもたくさんいたようだ。初老期以上の人も多かった。皆、子どものような、興味深々で嬉しそうな顔をしていた。私たちも、食い入るようにしてSLが通り過ぎるのを観た。
鉄道マニアのようなフェティッシュな嗜好を持たない人間でも、蒸気機関車・SLと聞くとどこかノスタルジーを感じてしまうのはなぜだろうか。「機関車トーマス」が「電車トーマス」では白けてしまうのはなぜだろうか。SL自体が、白煙を上げて雄叫びを上げる、野獣のような躍動感を持つことに魅力を感じるのも理由の一つだろう。老人にとっては、若き日の集団就職や都会でのランデブーの思い出もあるだろう。しかし私は、もう一つ別の理由を感じる。蒸気機関に、人類の歴史の青年期、中でも日本の近代の歴史を重ね合わせる人が結構いるのではないかと思う。日本の近代化は、江戸時代の終わりにアメリカからやってきた黒船と呼ばれる蒸気船に「太平の眠り」を覚まされたところから始まる。西欧の科学技術に驚きながら、それを短期間に必死に吸収しようと頑張っていた明治時代に、日本の青年期の活気を感じて惹かれる人は多い。司馬遼太郎の『坂の上の雲』が今でもよく読まれるゆえんだ。(ただ、私個人としては、『坂の上の雲』よりも、関川夏央・谷口ジローの『「坊ちゃん」の時代』の方がずっと味わいがある。あの漫画の中で、ナウマン象で有名になった地質学者エドムント・ナウマンが故国ドイツにて「日本人に創造性なし、また信義なし」「(日本人という)猿はその努力によって優秀な猿の域に達しても、とうてい人間たり得ない」と差別的な演説をしたのに対して森鷗外が反発し、「日本には古来、武士道があります。武士道とは信と義との結晶です。道徳です。ゆえにクリスチャニティを必要としません。東洋では、度量と浩瀚さをもって徳とします。ゆえに異教徒をも尊重し徒らにその命を奪うこともしません。われわれは数千年、心性を鍛えぬき、いま西洋の覇道から身を避けるために、たかが数百年の洋智を学んでいるのです。」と反論してナウマンに決闘を挑もうとしたところを乃木希典が強くたしなめた、というエピソードは、史実かどうかは知らないが、明治人の気概や葛藤がよく表れていて、大変印象的だ。)
明治時代は、日本の人口は急激に増加し、SLのように鼻息の荒い若者が多かったようだ。しかし、今や日本は未曾有の高齢化社会に、また、日本史上初の人口減少時代に入った。SL的なもの、青年的心性にノスタルジーを感じているだけでは衰退は目に見えている。老人が青年の運動能力を発揮しようとしても、それこそ猿真似だ。そんなことはせずに、青年には無い、老人なりの老成した知恵を発揮したい。そうする潜在能力がこの日本にはあるはずだ。
そんなことを考えていた今日この頃、「TPP交渉参加」を総理大臣が表明した。この高度情報化社会の世界の中で、自動車産業などの第二次産業を活性化させて日本を再生するという。明治時代や昭和の戦後の高度経済成長期のような、日本の青年期的な時代に有効であった戦略が現在でも通用すると、総理は本気で考えているのだろうか。金融や保険、IT産業を売り込んでくるアメリカに対抗できるのだろうか。「数千年、心性を鍛えぬき、いま西洋の覇道から身を避けるために、たかが数百年の洋智を学んで」きたはずの日本人は今や根無し草となり、その場しのぎの方策しか考えなくなったようだ。熟慮という言葉は「ラストチャンス」との脅迫的表現に圧殺されたようだ。私にはどうしても、先人たちの努力を無駄にし、将来の子どもたちに負債を残すだけとしか思えない。あのバラック小屋と高層ビルが隣り合う風景が、これからの日本に再現することは望まないのだが…。