最近、「戦略的」という言葉があまりに多用されているように思う。外交関係では「◯◯国と戦略的互恵関係を」などと言う。「戦略的互恵関係」なんて小難しい言葉だが、その実、こちらの利益を最大限にしつつ相手国も納得させるという、妥協点を探るという意味合いに過ぎないようだ。そんな行為なら弥生時代の地方部族の間でやっていた交渉事と本質は同じである。そういう行為について述べるなら、「戦略」ではなく、「友好」「共存共栄」とか、鳩山元首相のように「友愛」とか、穏当な表現では物足りないのだろうか。
先日、厚生労働省は、「健康・医療戦略厚生労働省推進本部」を立ち上げたという。既に、内閣官房に「健康・医療戦略室」があるが、その「実働部隊」だと厚生労働省が説明しているらしい。そこには四つの「タスクフォース」があるという。「戦略」「部隊」「フォース」など、戦争に使われる用語を次々と医療・厚生分野に持ち込むのはいかがな神経をしているのか。
言うまでもなく医療制度とは、あくまで国家単位での個別の福祉制度である。「世界の標準的な水準の医療技術」はあっても、「国際標準の医療制度」はない。公的負担をどの程度にするか、我々医療者や病院という人的・物的資源をいかに配置して有効に使っていくか、などは、個々の国によって大きく違う。日本、フランス、アメリカ、スウェーデンでは、それぞれ全く違った医療制度となっている。医療制度・体制に関しては、輸出中心の製造業のように「国際競争」の中で「生き残り」をかけて「戦略」を考えていくべき問題ではないから、あくまでその国の経済状況や社会状況を総合的に考えて結論を出していくべき、という当たり前のことを、今さらながら強調しなければならない。
しかしそのあたり、政府側は確信犯かもしれない。「国際競争」「成長戦略」などというフレーズを繰り返し、国民に「戦わないと生きていけない」「戦わざる者生きるべからず」と意識させて、個人の自由な思考をフリーズさせる戦略かもしれない。TPP参加問題についても、TPPに参加しないのは「国際競争」からの「逃げ」であるとする(撤退すべき局面でも「敵前逃走」を厳罰にした、先の大戦での日本軍を思い出す。)。先日、アルジェリアで犠牲になった「企業戦士」のご遺族やご遺体を政府専用機で運んだのも、そういう政府のキャンペーンの一環かもしれないと勘ぐってしまう(もちろん、亡くなった方々や御遺族を貶める意図は全くない。ただ、これまでに国際的なボランティア行為や報道活動をしていて犠牲になった方々やご遺族には、あのような丁重な処遇があっただろうか。)。
現政権は、そもそも医療や福祉とは何なのか、それはどうあるべきか、という根本問題を考えることなく、国民医療費の総額がいくらだとか数字ばかり見て、医療を経済的観点だけに集約させる。経団連のお偉方と全く同じ口調で、老人や生活保護者の医療費を槍玉にあげ、国民に対しては、「ぼろ儲け」しているとして開業医や日本医師会を敵視させる。老人や生活保護者や障害者は「働かざる者」、「(熾烈な国際競争の中で)戦わざる者」、お荷物であり、日本医師会は「既得権益」をむさぼる「抵抗勢力」と言うのである。
口が滑りすぎた。政府やマスメディアの好戦的な表現につられてしまったにせよ、こちらも戦闘的な表現を使ってしまうのでは、はしたない。言葉とは恐ろしいものだ。表現や口調、発声のいずれにしても、乱暴になると結局は話者自身の心が荒れる。日頃、心が荒れた患者さんを相手にするのは疲れると実感している。インターネットで言葉の荒れた表現のサイトばかり見ているような人は、そのうちに自然と、現実の対人場面でも言葉や態度が荒れてくる。所作が汚くなってくる。
感情をそのままに表現すること、たとえそれが怒りや恨みや妬みというネガティブな感情であっても、感情を表出することが治療的に働く、とされたことは、心理療法の歴史の中で何度もあった。例えば、20年ほど前に、アメリカでのPTSDの治療として、トラウマを思い出して怒りの感情が出てきた患者がひたすらガラス瓶を壁に投げつけて壊すのを治療者が見守る、という光景を見た。しかし昨今ではそのような、ただ「感情を吐き出す」のを勧めるような治療はあまり効果的でもないとみなされてきているようだ。感情を発露すればするほど感情の波に呑み込まれてしまうことは多い。「悲しいから泣くのではない、泣くから悲しいのだ」との脳科学の見解は、近年説得力を持ってきているようだ。
私たちは、たとえ自分の心の中だけであっても誰かや自分自身を攻撃したり非難したりすることだけを繰り返さず、かと言ってそういうネガティブな感情を抑圧して無きものとはせずに、なるべく冷静に、心の中に起きる現象をつぶさに見つめていくことが必要とされるようだ。他人の悪口ばかり言っていると自分も悪く言われないかと猜疑的になるし、「所詮この世は金」と言い続けていると金銭利害にばかり目が行き、他人との親密な関係は作れなくなる。心の中でのつぶやきは心の生活習慣病を引き起こす。「周りが悪いから怒るのではない、怒るから余計に周りがより悪く思えてくるのだ」という現実はある。
そんなことを考えていた最近、精神分析的精神療法を学ぶ勉強会に参加したところ、指導者の先生が、精神分析には「防衛」とか「抵抗」とか「抑圧」とか軍事的・政治的・権力的な用語が多々あるので注意が必要だと話されていた。また、「〇〇しないと△△はない」との二重否定表現、それは結局のところ脅迫・命令的表現(つまり「△△になりたいなら〇〇をするしかない、〇〇しなさい」、例えば「薬を飲まないとうつ病は治らない」と言い、「薬を飲みなさい」と命じる)を患者さんにすることに対し警告をされていた。こういう表現を繰り返ししていると、私たち治療者が威丈高になって私たち自身もストレスになる(「なぜ目の前の患者は最善策の〇〇をしないのか」との怒りが出てくる。怒りは怒る人の心身を蝕む。)。また、患者さんは自分で自分の養生を考えて治療行為に自分も参加しているとの実感がなくなる。それは患者さんの自己治癒力を減退させる。先生はそのように説かれた。そういう点に、私は日頃無自覚なことがあったと反省した。政治家や官僚の言葉遣いを非難する前に、まずは私自身の言葉遣いから質していきたい。