今、「ポケモンゴー」というゲームが大ブームになっている。
麻生太郎大臣は「ポケモンゴー」につき、
「精神科医が対処できなかったオタク、自宅引きこもりが
全部外に出てポケモンするようになった」
「精神科医より漫画の方がよほど効果が出るのが
一番大きいんじゃないか」
とコメントしているとのことだ。(「ウィキペディア」より)
確かに、私のところに通っている患者さんの中にも、
ポケモンゴーをきっかけにして外出・運動の機会が多くなった、
と話した人が何人かいる。
交通事故や公衆への迷惑行為にならないのなら、
このゲームは健康に良いかも、と思う。
ただ、外出することと、「引きこもり」が治るということは
別のレベルのことだ。
ポケモンのキャラを追って外出しても誰とも話さず、
スマホの画面ばかり見ているならば、
やはりそれは自分だけの世界への引きこもりである。
いや、「ポケモンゴー」をしている人は、家の外に出て、
SNSを通して他人とつながってゲームをしているのだから、
孤立しているわけではない、
と反論する人もいる人もいるかもしれない。
確かに彼らは彼らのネットワークでつながり、
スマホを通して彼らだけに見えるキャラクターを介して、
他人とつながっているようだ。
しかし、同じキャラを「見る」ことで他人とつながっても、
そのつながりは弱いものだ。
それは、火事やケンカを見る野次馬が、
事が終われば散り散りになるのと同じである。
野次馬同士には、人と人との真のつながりは生まれない。
それでも私たちは、他人と「同じ物を見て同じように感動する」
希求する。
精神科医の北山修は著書『共視論』の中で、特に日本では、
母と幼い子どもが一緒に美しい物を見る(
構図の母子像の浮世絵が多いことに触れ
(西洋では母子が違う方向を見ていたり、父も登場する絵が多い)
幼い子どもが母と一緒に物を見て(共視)、感動をともにし、
その感動の思い出を基にして健全な母子分離が始まり、
大人になってからも、物を共視する母子像が理想郷とされる
(小津安二郎の映画のように、日本人は相手の視線の動きに敏感で
自然に相手と一緒に共視する姿勢が身についている)、
といった、日本文化論に基づいた精神分析理論を展開している。
大人の私たちは、
「あの時同じ花を見て美しいと言った」母子や恋人同士などの
「二人の世界」を懐かしむから、共視の構図の絵を好んで見る、
特に日本ではその傾向が強い、との話だ。
私たちは、「ポケモンゴー」をしながら無意識的に、
今はもう取り戻せなくなってしまった、共視する二人の世界の
すばらしい思い出と同じレベルの感動を求めているのかもしれない。
それは、愛と幻想の織りなす領域の世界だが、
それを幻想だと言い切ってしまえば、
私たちが生きている世界に届かない空論になってしまう。
でも逆に、その領域を愛の世界だと言い切ってしまうと、
「ポケモンゴー」に関するニュースで懸念されているように、
金儲けや政治目的に、ていよく利用されることもある。
このあたりの心の領域は、
ギャンブル依存症やゲーム依存症のような嗜癖問題と隣り合わせの、
繊細な性質を持っていると思う。
「人生には歌がある」と俗に言われる。
人間、長く生きていれば楽しい時期、辛い時期があるが、
その時期によって人それぞれ、
その時の気分に見合って浮かんでくる歌、曲があると思う。
しかし、そうした自分の心象風景にマッチした曲は、
必ずしも自分の好みに合った歌でもなく、他愛もない歌であったり、
自分の嫌いな歌詞やメロディーの曲であったりする。
PTSDの患者さんが、
思い出したくもない曲が流れるとトラウマ体験を思い出し、
苦しくなることがあるが、それはPTSDの患者さんに限らず、
広く私たちに共通することだと思う。
私が、好きでもないのに自分の思い出に伴って出てくる曲の一つは、
PL学園の校歌だ。
私が卒業した中学や高校の校歌を全く覚えていないのにもかかわらず、
今でもPL学園の校歌はそらで歌えてしまう。
それは、70ー80年代に高校野球観戦で
PL学園の校歌を何度も聞かされたのが大きな原因だろうが、
その頃の私が、夏休みに魚釣りや工作、草野球やトランプゲームなど、
自分の好きなことに熱中し、ゆったり過ごせた、
当時の良き思い出につながっているからだと思う。
PL学園の校歌は、歌として見れば失礼ながら名曲ではないが、
私個人の良き思い出につながっているからこそ
今でも良き歌として記憶されているのだと思う。
逆に、私の嫌な記憶を思い出す曲は、尾崎豊だ。
尾崎ファンの方は気を悪くされると思うが、
私の仕事で辛い局面にある時にしばしば尾崎の曲を聞かされた。
私が今でも思い出すのは、
精神科病棟に強制的に入院させられた患者のみならず、
自発的に入院してきた患者の中でも、
迷惑行為、犯罪行為、例えば、他の入院患者に暴力を振るったり
(私、看護者や他の入院患者に対し殴る蹴るのみならず、
他の入院患者にひどい暴言、女性患者の髪に火をつけて燃やすとか、
抵抗できない女性入院患者に性的暴行、など)、
必要もないのに大声を上げたり火災報知器を鳴らしたり、
病棟内で万引きしたり、などなど数限りなくあるが、
そうした厄介者(「人格障害」との一応の診断はある「障害者」)に
困らされた嫌な記憶を思い出す時、
尾崎の曲が私の頭に流れてくる。
それは、ある思春期の厄介患者の母親が是非聴くようにと
わざわざ私に尾崎の曲のカセットテープをくれた記憶や、
別のある厄介患者が自分の暴力を正当化するのに
尾崎の歌詞を援用した文章を書いてよこした記憶などに
端を発しているように思う。
尾崎の曲には、自分の欲求が満たされなかったとき、
自分が社会的に認められないときに、
怒りをぶちまけるような歌詞がたくさん出てくる。
尾崎自身がどのような人柄であったのかは知らないが、
彼の歌詞に共感する人格障害者は、
勝手に自分が世界で一番不幸だと思いこみ、
その不満から他人を傷つけ、その行為を正当化する。
(私自身は、生活の困窮やイジメなど、辛い目にたくさん遭ったが、
尾崎が歌うように学校や社会全体を恨んだり罵ったりしたくなることは
無かった。
「日本死ね」と言うように、自分が不幸だから国全体を呪う、
という心境に至った覚えは無い。)
このたび、
夜中に眠っている心身障害者を次々に殺傷する、
という悲惨な事件のことを聞き、
私は自分が見てきた人格障害者たちを思い出し、
尾崎のある曲で、
放課後の学校の窓ガラスを割って回る、
という内容の歌詞を思い出してしまった。
窓ガラスを割るようにして簡単に殺されたたくさんの命を思うとき、
私は自分の言葉を失い、悲しむことも怒ることもできず、
ただ、尾崎の曲が私の頭にリフレインした。
(※これは、大きなショックを受けてなすすべきことも見つからない、
無力な一個人の勝手な反応であり、
今回の事件に対して尾崎豊は何の責任もないことは、
あらためて強調し、お断りしておきます。)
<メルマガより>
社交不安障害(social anxiety disorder、略してSAD)という
病気があります。
この障害、SADを持つ方は、
人前で恥ずかしい思いをするかもしれない場面をひどく恐れます。
たとえば、人前でのスピーチ、人前での食事・電話・書字などです。
俗に言う「あがり症」の強いものですが、
症状の重い人はほとんど外出できずに引きこもり、
親族の冠婚葬祭にさえ出席できないなど、生活の支障が大きいのです。
職場で電話する、客にお茶を出す、という特定の場面だけにしか
支障がない軽症のSADの人も多いのですが、
軽症の人でも重症のSADの人でも、その恐怖する場面を想像するか、
もしくは過去に人前で失敗した場面を思い出すと、
恐怖感から声がうわずったり、汗ばんだり、体を縮めこんだりします。
恥をかいた記憶が突然、その光景が生々しく、目の前に現れます。
このように、SADの症状は、PTSDの症状と同じく、
フラッシュバックが生じたり、恐怖場面を回避したり、
自律神経の症状が生じたりします。
パニックや抑うつ症状、アルコールや薬物依存の合併が多いことや、
恐怖場面を回避し続けて自然治癒することはほとんどないのも
SADとPTSDに共通します。
また、その治療においても、薬物ではSSRIが有効だし、
行動療法、中でも暴露療法(恐怖場面を避けず、少しずつ慣れていく)
が有効です。
特殊な治療法ですが、EMDRという、一見催眠術のような特殊治療も
SAD・PTSDともに有効です。
臨床現場では、SADの人も、
過去に恥をかいた場面を「トラウマ」と呼ぶことがよくあります。
恥をかく場面がすべてトラウマにはなりませんが、
トラウマにはなり得ます。
(レイプ被害が周囲に知れて被害者が「恥」と感じることを
想像してみればわかるでしょう)
このように、SADとPTSDには似たところが多く、
まったく同じ病態とは言えなくても、
近縁の疾患と考えた方が良いと思うのですが、
昨年改訂された診断基準DSM第5版では、
第4版まではSADと同じく「不安障害」に分類されていたPTSDを
別の分類にしました。
(その理由について私は詳しく知りませんが、私見では、
学問的な事情ではなく、政治的な事情だと思っています。
またの機会に触れたいと思います。)
その分類基準の背景には、
SADの人が「トラウマ」となった「恥」の体験は
病者本人が自分で作り出したもの
(言い換えれば、自然災害や、他者が害を加えた結果ではない)
であり、
PTSDのトラウマの場合は、天災・人災の結果である、
という考え方があると思われます。
言わば、生まれ持った弱さから生じるのがSADで、
運悪く受けた災難から生じるのがPTSDだという考え方です。
これは単純な二分法であり、後に述べるように、間違っています。
しかし、一般の人にはわかりやすく、
災害や犯罪被害の補償問題などの議論では
「トラウマ」を申告する人に対して手当や補償を施す際に
どうしても線引きする必要があるので
(賠償金、障害年金、医療費負担など)、
こうした二分法をとってしまうのです。
SADについて言えば、
日本ではつい先日まで「対人恐怖症」という病名で呼ばれていました。
対人恐怖症は、SADの病態を含むより大きな疾患群なのですが、
ここでは同義に捉えてもらって良いと思います。
対人恐怖症の病理の考察とその独特な治療法で有名なのが、
大正から昭和にかけて活躍した精神科医、森田正馬です。
森田正馬は「森田療法」として、
今で言うSADやパニック障害、当時は「不安神経症」と呼ばれた
病気を治療していました。
森田は、対人恐怖症の病理につき、
DSMのように「本人の体質・素質」か「トラウマやストレス」か、
という二分法で考えることはしませんでした。
森田が考えた対人恐怖症の病理では、
一過性に生じた悲しみや不安などの感情が続きやすい体質、
つまり、ネガティブな気分の切り替えがしにくい気質(神経質)を
生まれ持ったものと考えます。
ただ、その体質を持って生まれた「神経質」な人が全て
対人恐怖症を発症する訳ではなく、
そういう体質の人がたまたま人前で大恥をかくという体験、
今で言うトラウマ的な出来事が起きることを発症の条件と見ます。
ここまでは、「体質要因」×「トラウマ的出来事」という、
DSM的な二分法ですが、森田はそれに加え、
対人恐怖症の発症要因として、患者の性格因を重視します。
それは、「負け惜しみの意地っ張り根性」と表現されます。
つまり、対人恐怖症の患者は、神経質な体質なので、
社交場面で「恥ずかしい」と感じやすいのですが、
そういう自分を「ふがいない」と考えて
(つまり生得の体質、弱さを認めない「負け惜しみ」)
自分は「恥ずかしがらないようになりたい、なるべき」と考えます
(つまり「意地っ張り」になる)。
しかし、そのように考えることにより、
逆にちょっとした人前での当惑や緊張が気になって仕方なくなり、
対人恐怖症の赤面や震えや発汗などの症状が強まってしまう、
そのためにまた自分を「ふがいない」と考えて・・・(以下同上)、
という悪循環に陥るのです
(森田は「とらわれ」の病理と表現します)。
このような森田の考えに沿って考えると、
対人恐怖症では、神経質という生まれ持った体質や、
人前で恥をかいたというトラウマ的な体験よりも、
病者の性格・症状の捉え方の問題が大きな発症要因、と言えます。
私の臨床の実感からしても、もちろん個々にそれぞれ違いますが、
SADやパニック障害の患者さんについては、
森田の考え方がしっくりくるケースが多いように思えます。
病気の原因はさておいても、その治療においては、
上記のように症状にとらわれて悪循環に陥っている構図を
治療者が頭に置いておくこと、そして、
タイミングを見て患者さんにもその悪循環を知っていただくこと、
が大事だと思います。
現代に問題になっているトラウマやPTSDについても、
森田ならば、発症の原因となったトラウマ的出来事よりも、
「負け惜しみ」「意地っ張り」「とらわれ」という
性格や考え方の病理を重視することでしょう。
実際、私たちの臨床現場では、
一昔前なら「恥をかいた」と表現されたであろうことを
「トラウマ」と表現する人が多くいます。
そういう人たちの中に、プライドが高すぎたり、
自己顕示欲が強すぎたりして、自分の弱さを認めようとしない、
「負け惜しみ」「意地っ張り」が極端な人を時々認めます。
そういう人は年々増えている印象です。
逆に言えば、等身大の自分を大きく越えた過剰な自己像を
心の中に持ち続けている人が、その自尊心を少しでも傷つけられると
「トラウマ」となる、もっと言えば、
過剰な自尊心を持っている人がトラウマを負いやすい、
と思います。
このような文脈で「トラウマ」の用語を使うのは間違いである、
と、本当のPTSDの患者さんや専門家に怒られそうですが、
臨床の現状からするとどうしてもこのように思えるのです。
ここは大変微妙な問題をはらんでいて、説明が難しいところですが、
今回のお話を踏まえて、次回にあらためてお話ししたいと思います。
この本には、やたらカネに関わる話が出てくる。生々しい具体的な金額も頻出する。ギャンブルの話だから当たり前でもあるが、中でも特に依存症者の体験記にはカネの話がたくさん出てくる。「500万円もの大金がATMに吸い込まれるのを呆然と眺めていました」とか、「孫のためと思って、数十万円を度々振り込み・・・1000万円はアッと言う間に消えました」とか、「不審に思うことがあり、問いただすとまた借金50万円」、などなど。
そのようなカネについての生々しい話は聞きたくない、関わりたくない、という精神科医や心理士は意外に多いと思う。精神科医や心理士は、人間の成長、人間関係の修復、愛、罪、後悔、トラウマ、人生の意味、といった「心の問題」を扱いたいと思ってその職を選んだ人が多いと思う。「カエサルのものはカエサルに。神のものは神に。」でもないが、「私たち心理士は心の話、カネの話は実業家に。」と思っている精神科医や心理士も多いと思う。
しかし、精神科医や心理士も、その仕事の報酬としてお金をもらって生きている。私たちは宗教家や聖職者ではない。私たちの仕事の実務上では、カネと時間をどのように使っていくか、という課題は、いつも目の前にある。公立病院においても経営効率が求められている時代である。しかし、そんな現代の病院に勤めていても、浮き世離れした精神科医は、自分の受け持ちの重症の入院患者はそっちのけにし、自分の好みの一人の外来患者に入れ込み、その一人の患者に毎週2、3時間もの時間を使って面接する(しかも特別料金を取らない、つまりは10分診療患者と同じ料金)、といった特別診療をする。
その上で、そうして入れ込んだ特別診療の患者の症例を発表し、症例検討会の指導者から立派な診療がなされたと褒められて終わる、そんなケースカンファレンスが各地でなされている。彼らの臨床行為の裏に、声無き患者、幻覚や薬の副作用に苦しみ、いつ自殺をしてもおかしくない患者がいるが(実際に薬害や自殺で亡くなってしまっている人もいる)、そういう患者さんたちのことは顧慮されない。かように精神科医や心理士は浮き世離れした人種である。もちろん精神科医や心理士の皆がそんなに極端な仕事をしているわけではないが、仕事の力点の置き方のバランスが悪い人たちは結構見かける。
少し寄り道が長くなってしまった。書評の話に戻りたい。
この『ギャンブル依存症サバイバル』に書かれている、著者熊木のギャンブル依存症の治療の話においても、具体的なカネの話がたくさん出てくる。そのオリジナルな治療法である「熊木メソッド」によるギャンブル依存症の治療の始まりにおいては、治療契約として患者家族と「念書」を交わされる。その念書にはたとえば、「クライアントが30万円以上借金をしたのが発覚したら離婚する」といった約束が書かれるという。その念書の設定、「30万円」との具体的な金額を決める際に、「家族成員それぞれの金銭感覚をリサーチすることはかなり重要なこと」と熊木は主張する。そういう状態把握の上での「30万円」の金額設定だそうだ。しかし一方で熊木は、念書に書かれるような固い治療枠だけに縛られず、柔軟性も示す。例えば、依存症者家族の質問、「500万円の借金ができた。夫の副業だけでの返済は無理そう、家族が代わりに返済することは良くないか」に対して熊木は「本人が返済の苦労を理解できれば多少の妥協案(注:妻が返済に協力すること。注は引用者)はOK」と返している。つまり、熊木は「家族成員それぞれの金銭感覚」のみならず、その時点での家族間の愛憎・情愛・信頼・恩義の関係、それまで家族の歴史をも総合的に勘案して金銭に関する設定や助言を行っているのである。たしかにそれは表面的には金銭の話だけをしているように見えるが、その話し合いの裏には依存症者や家族の内省の進行があり、その進行が、壊れかけた家族間の関係修復につながっていく。それは自然な流れであり、理想的なカウンセリングである。それだけに実践的なカウンセリングである。家族の危機と再生の物語がそこにある。本著の後半にある、家族の治療体験記を読めばよくわかる・・・「自分がなんて馬鹿だったかを知った」、「どれだけ家族に迷惑をかけ、悪いことをしてきたかを省みることが出来た」、「(ギャンブルに依存していた過去の)私は何となく自分を大切にしてあげていなかった」、「(妻の体験記:)(夫は)こんなに自分ありきの考え方しかできない人だったんだ・・・(ギャンブル依存の)治療を受けるのは、本人よりパートナーの方が辛いかもしれません。」といった、当事者たちの重要な気づきが得られている。
このように、熊木のギャンブル依存症治療においては、カネの話をしながら、次第に自己の内省、家族関係、生き甲斐、人生の意味につき、考えていかれる。始めは一見皮相な問題のように見えることから話し合い始め、いつも間にか人生の深い問題について考えることになり、最終的に大事な気づきが得られる、というプロセスは、カウンセリング・精神療法の理想形である。
これまで熊木は、精神科薬物の「官能的評価」において、表面的には薬物という「モノ」の話をしながらもその話の中に、精神療法的な話が不可分のものとして織り交ぜられた含蓄のある語りをしてきたが、その臨床センスはギャンブル依存の治療においても十全に発揮されていると、この本を読んで改めて思った。
もちろん、実際の治療現場においては、このような実践は医師一人だけでできることではなく、心理士やソーシャルワーカーらとの連携が必要である(患者や家族の経済状況と心理状態の全てを医者が聴取していたら、とても医者の仕事にはならない。それこそ自分好みの患者に入れあげて重症患者を無視する精神科医と同じになってしまう)。この本では、そのあたりについても、治療実践のコツ、エッセンスが書かれている。私たち精神科医・心理士のチームが仕事を勧める際に必要な、役割分担、職種連携、時間配分、治療の料金設定、という、臨床実務一般に通じる内容ついても勉強になる。その点でも本書は、ギャンブル依存を専門としない精神科医や心理士にも是非勧めたい。
考えてみれば、カネとは不思議なものである。古来から社会において、カネは単なる物の売買や交易の手段だけに使われてきたものではない。私たちは、見栄で多額のカネを使うこともあれば(高価な服や車)、謝罪の意を高額な賠償金で表現するし、愛情の深さを表すのに金をつぎこみ(給料の何ヶ月分もの結婚指輪)、被災者への援助の気持ちを寄付金の多さで表し、神仏からの救済を得るためにたくさんの寄付やお布施を差し出す(免罪符、戒名制度)。
そのように、私たちの自負、虚栄心、愛や罪の意識、救援や贖罪、といった思いや願いの気持ちをカネで表すことを全くしないならば、私たちの社会は成り立たない。個人がその自由にできる範囲のカネをどう使うかは、その人の生き方、その人の美学が表れる。この世においてカネは、愛や罪、善、美学といった、本来的にはカネと無関係である「プライスレス」な価値と切り離せないところがある。とすれば、私たちが渡世の手段として不可欠なカネをどう扱うか、という問いは、私たちの価値・内なる美学を現実としてどう表現するか、という問いと置き換わる。その点で、私たちの診療について言えば、熊木の診療のように、金銭についての話し合いをすることがすなわち生き甲斐・人生の価値といった心の問題を扱うことにもつながりうる。
この現代では、カネの問題は「経済学(エコノミクス)」と呼ばれ、マルクス主義経済学のようにモノの話に矮小化して「唯物論」的な話とされがちであるが、「エコノミクス」の原義は「オイコノミア」、それは「家・共同体」を意味する「オイコス」と、規律・規範・法を意味する「ノモス」という語の結びつきだという。私たちが共同体をうまく運営していく際、共同体の個々の成員の気持ちや生活状況を把握せずには成り立たない。「オイコノミア」は人々の生活や価値観、共同体が共有する理想などが絡む「政治学」と切り離せない意味合いがあった。そうした人間社会・共同体の根本に立ち戻って考えて臨床を行っていくこと、私たち精神科医や心理士が患者さんやその家族と「治療共同体」を作って臨床実践をしていく上で必要な、語源的な意味での「エコノミクス」の感覚を、この本は教えてくれているような気がする。